『ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。


善悪二元論の物語。■

 いまこの記事を書き始めようとしているわけだが、この冒頭の時点で既に長くなる予感がしている。それはもう、ペトロニウスさん(id:Gaius_Petronius)の一部の記事並に長くなる気がする。原稿用紙20枚くらいは軽く行くんじゃないかなあ。

 なぜなら、テーマの照らし出す範囲が広範で、多岐にわたるからだ。書いても書いても終わらないという気がしてならない。まあ、いいや、そんな愚痴を書けば書くほどむやみと長くなるので(平和大明神(id:kim-peace)に「文章が無駄に長い」といじめられるぼく)、まずは書きはじめることにしよう。

 ちなみに議論のたたき台を目指すつもりなので、批判点は色々あると思う。トラックバックで突っ込んでくれれば嬉しい。

 テーマは、ペトロニウスさんやLDさんがいうところの「先の物語」。「先の物語」とは何か。ぼくが理解しているところでは、それは「善悪二元論の先にある物語」である。しかし、それは単純に「善悪二元論を相対化した物語」ではない。どういうことか。順を追って話していこう。

 まず、この世界で最もシンプルで、共感を呼ぶ物語はひとを善と悪に分けた二元論の物語である、ということ。これはまず、共感してもらえるところだろう。国民的RPG『ドラゴンクエスト』や世界的漫画『ドラゴンボール』、ハリウッドのアクション映画の数々など、マスに訴えかける物語は、基本的にこの善悪二元論を採用している。

ドラゴンクエストVI 幻の大地

ドラゴンクエストVI 幻の大地

 また、過去の歴史を振り返ってみても、指導者は常に味方を「善」とし、敵を「悪」とすることで兵士を動員してきた。善悪二元論の物語。それは、人間を「味方」と「敵」に分ける物語である。

 善悪二元論の物語には、本来、複雑で相対的で、ひと言では語れないはずの世界を「善(味方)」と「悪(敵)」にシンプルに分けることで、強烈にひとの感情を喚起する力がある。

 しかし、この形式は、深刻な問題点がある。複雑な世界の実相を描ききれないのだ。この複雑きわまりない現代社会に生きる人間は、世界は善と悪などという単純な構図では割り切れないことをしっている。したがって、いまの我々にとって、善悪二元論の物語は、あまりに物足りないものとして映る。

善悪二元論の否定。■

 そこで、善悪二元論を超越した物語が要請される。いわば、脱二元論の物語である。たとえば、ロボットアニメは、『機動戦士ガンダム』シリーズにおいてそのレベルに達したといっていいだろう。

 『ガンダム』は善悪二元論の世界に「戦争」という概念を持ち込んだ。「戦争」は善と悪ではなく、複数の主観的な善のあいだで行われる。したがって、『ガンダム』の世界において、もはや、善悪二元論は意味をなさない。

 それでは、『ガンダム』は二元論を超克したのか。そうはいえないだろう。『ガンダム』は二元論を廃したために極端に構造がわかりにくくなってしまった。シリーズ第二作『機動戦士Ζガンダム』などは特にそうである。ぼくは一応、全話を通して見ているはずだが、あまりの複雑さにほとんど内容を憶えていない(笑)。

 ペトロニウスさんはこう書く。

こうした二元論の超克を目指す物語構造には、宿命的に伴う問題点がこの点だ。

?明確な感情移入のキャラクターがないこと

?対立軸が複雑すぎて視聴者がついていけなくなる

前回説明したように、「敵を作ること」つまり、善と悪をはっきり分けることというのは、人間の本性・本能にとても合っている。だから、自分の愛するものを殺されたから殺し返すというロジック・心理には、強い正統・正当性が感じられるのだ。

だから、すなわち、感情移入効果・同一化の効果が非常に強い。

それはすなわち、おもしろい!と考えてもらっていいんです。だからこの、「敵を敵として憎むこと」をキャラに禁じてしまうと、視聴者が感情移入の先を失ってしまうんです。

二元論の拒否というのは、主観的な視点で世界を眺めないということだからです。

世界には自分ひとりではなくて自分と同じように感じる相手もいて、敵であっても同じ気持ちを抱いているという「強烈な想像力」を持たないと、主観的な世界(=唯我論の世界)から抜け出すことはできません。はっきりいって、すごくすごくむずかしいですが。

 そしてまた、『Ζ』のその複雑さを受け継ぎ、再現したのが『機動戦士ガンダムSEED DESTENY』で、そのためにこの作品は失敗作に終わったという。ただ二元論を相対化するだけではダメなのだ。そこには単なる価値相対主義の陷穽があるだけである。

■歴史的ヴィジョンとSF的ヴィジョン。■

 もちろん、善悪二元論を相対化した上で、マスに訴えかける広さと玄人の読みに耐える深さを兼ね備えた傑作がないわけではない。それがたとえば田中芳樹の『銀河英雄伝説』であり、栗本薫の『グイン・サーガ』である。

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)

 この二作がいずれも中国の古典『三国志演義』を背景とした大長編であることは必然である。この二作は三軸の物語を導入することによって二軸の物語を超越しようと試み、一定の成功を見た稀有な名作なのである。

 しかし、とにかく、『銀英伝』や『グイン・サーガ』のなかでは、はてしなく戦争が打ち続くばかりであり、しかも将来にわたってもその状況を脱することができないことが示唆されている。たとえば、『銀英伝』の一方の主人公、ヤン・ウェンリーはいう。

恒久平和なんて人類の歴史上なかった。だから私はそんなものは望みはしない。だが、何十年かの平和で豊かな時代は存在できた。吾々が次の世代に何か遺産を託さなくてはならないとするなら、やはり平和が一番だ。そして前の世代から手渡された平和を維持するのは、次の世代の責任だ。それぞれの世代が、後の世代への責任を忘れないでいれば、結果として長期間の平和が保てるだろう。忘れれば先人の遺産は食いつぶされ、人類は一から再出発ということになる。まあ、それもいいけどね」

 『銀英伝』の「歴史」志向がわかるひと言である。いわばヤンは「昨日」の延長線上に「今日」を見ており、そして「明日」もまた、そういう状況が延々と続いていくだろうと考えているのである。これはおそらく田中芳樹本人の思想であろう。

 宇宙船に乗りはるかな銀河まで進出したとしても、人類は何も変わらない。なぜなら、いままで変わらなかったからだ。それが田中芳樹とヤンの哲学なのである。人類滅亡のそのときまで延々と続く「今日」。それこそが田中芳樹が見出したヴィジョンであった。

 さて、このような「歴史」の物語の対局に、「SF」の物語がある。そこでは、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』が描き出したような、「超人類への進化」というヴィジョンを見出すことができる。

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

 『幼年期の終り』のなかで、「産婆」である種族オーバーロードに導かれた人類は、オーバーロードの理解をも超えた超越的存在オーバーマインドへと進化する。このような「進化」によって、はてしなく続く戦争から抜け出すというヴィジョンは、かなり普遍的なものだ。

 こうして見てみると、いわば一方に「歴史(はてしなく続く戦争のくり返し)」というヴィジョンがあり、もう一方に「SF(超人類への進化による歴史からの脱出)」というヴィジョンが存在するということがわかる。

■「はてしないくり返し」の向こう側へ。■

 『ガンダム』シリーズにおける「ニュータイプ」という概念は、後者をめざして生み出されたものだろう。しかし、じっさいにはシリーズの作中で「ニュータイプ」への進化が描かれることは遂になく、シリーズは「歴史」の物語へ舵を取ることになった。

 その結果、延々と続編が制作されるにいたり、『ガンダム』シリーズはある種の停滞感を感じさせるものとなった。どこまで行っても地球連邦は打倒されることがなく、ただひたすらに戦争が続く。この循環的状況は、見るものを疲労させたことだろう。

 しかし、『ガンダム』を見る限り、いつまで待ったら新人類へ進化する時が来るのかわからないことも事実だ。そこで、『新世紀エヴァンゲリオン』では人為的に新人類への進化を起こして、いつまでも続く不毛な争いという「歴史」を断ち切ろうとした。

 ところが、物語の主人公である碇シンジは、そのSF的な「進化」を拒絶して、「歴史=現実」へと帰還する。ここにおいて、「超人類への進化」というSF的ヴィジョンは完全に挫折したといえそうだ。

 そこで、ひとのままひととして循環を打ち破ろうとする物語が要請されることになる。たとえば、TYPE-MOONの『Fate/Stay night』である。この物語の主人公、衛宮士郎は、だれもが幸福になれる世界という、まさにヤン・ウェンリーが言下に否定したような不可能な夢を見る。

 そのためにかれは泥のなかを這いずりまわるような苦しみを経た果てに、アーチャーという自分の分身によって否定される。最終的にはかれはそのアーチャーをも超えていくのだが、しかし世界を救済できたわけではない。

 『Fate』は『ガンダム』や『銀英伝』の「その先」を目指した物語だといえるかもしれないが、しかし、じっさいに「その先」を見せてくれたとはいえないかもしれない。

 また、漫画の世界では、『HUNTER×HUNTER』や『DEATH NOTE』などが、「その先」を目指しているといえるだろう。

 主人公の無残な敗北というバッドエンドに終わった『DEATH NOTE』はともかく、『HUNTER×HUNTER』はまだ完結していないので具体的評価を下すことはできないが、この作品は「絶対に理解しあえない「蟻」との戦い」という次元にまで物語が到達しており、先の展開を期待させるものがある。

 これもまた、「先」へ挑戦した一作といえると思う。あるいは、アニメの世界では『コードギアス』がある。この作品の主人公ルルーシュランペルージは、ある日、「ギアス」と呼ばれる超常の力を手に入れたことから、世界の統一をめざし闘うことになる。

コードギアス 反逆のルルーシュ 1 [DVD]

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 そして最終的には自分自身を生贄にささげることによって、次の世代への希望をつなぐ(ちなみにルルーシュはそこにいたるまえに「Cの世界」を通じた人類の統合という『幼年期の終り』的、人類補完計画的ヴィジョンを否定している)。

 しかし、『コードギアス』もまた、「「循環する歴史」のその先」を見せてくれたとはいいがたい。この作品についてはGiGiさん(id:GiGir)の意見が正鵠を射ているであろう。『コードギアス』は、次の世代に託すことによって問題を一時的に「保留」したに留まるのである。

 『Fate』にしろ、『コードギアス』にしろ、いままでにない物語をめざして描かれたものであることはたしかだ。その意味で、きわめて志は高いといえる。しかし、結果としては、「その先」までたどり着くことはできなかった。惜しいところまではいったが、やはり届かなかったのである。

■絶望的現実との対決。■

 一方、「その先」を目指すことによって絶望的な現実と対峙してしまった作品もある。たとえば先述の『Fate』の姉妹編である『Fate/Zero』がそうだ。

 『Zero』の作中、衛宮士郎の義父である衛宮切嗣は、「恒久平和」という壮大な夢を見、そのために何らなすことなくぼろぼろとなって死んでいく。

 また、『SWAN SONG』の尼子司は大地震により地獄のような惨状となった世界のなかで理性を維持し、周囲に希望を感染させようとするが、果たせず、死んでしまう。

 あるいは、田中ユタカ『愛人』の主人公は、ただひとりの恋人を失い、じぶんも失明したあげく、巨大な岩の下敷きとなって死ぬ。

 これらの作品に共通しているものは、それ以上一歩も進めないと思わせるような「行き止まり」感である。切嗣も司も気高い志をもって世界と対決するのだが、その果てに待っているものは無残な「バッドエンド」なのだ。

 しかし、これらの作品は、抜き差しならない「行き止まり」にまで到達したという意味で、やはり名作と呼べるであろう。

 そして、こういった「行き止まりエンド」の代表作は、やはり『風の谷のナウシカ』だろう。世界を経巡り、戦い、冒険し、世界の秘密を知るに至ったナウシカは、最終的に旧世界の遺物である「墓所」の主と対決することになる。

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

 『幼年期の終り』のオーバーロードや、『新世紀エヴァンゲリオン』のゼーレを思わせる「世界の管理者」である墓所は、ナウシカに問いかける。「娘よ、お前は再生への努力を放棄して人類を滅びるにまかせるというのか?」。

 墓所による「救済」と「再生」こそ、人間を救う唯一の道なのだ、と。しかし、ナウシカはその「救済」を拒絶し、汚れた世界のなかで汚れた人間として生きることを決意する。

 善悪二元論をはるか遠いところに置いてきたような『ナウシカ』の結末は深遠でしかも感動的だ。しかし、問題はのこる。いったいこのあと、世界は、人類はどうなってしまったのだろう? 結局、亡び去ったのだろうか? 『ナウシカ』はその疑問に応えてはくれない。

 この作品は「語り残したことは多いがひとまずここで、物語を終ることにする」として結ばれている。いわば、『ナウシカ』はのちの作品にさまざまな課題をのこして「中断」した物語であるといえるのだ。したがって、「その先の物語」が存在するはずなのである。

 「世界の終わり」というどうしようもない「行き止まり」のヴィジョン。『Fate/Zero』の、『SWAN SONG』の、『愛人』の、『風の谷のナウシカ』の「その先の物語」があるとすれば、この「行き止まり」を打破して、世界を救済する物語となるであろう。

 そこで、ママレードサンドさんの『魔王×勇者』(色々な呼び名があるが、今回はこう書く)が登場する。これこそ、我々が待ち望んだ「先の物語」、その烽火なのだ!

■『ナウシカ』の「その先」へ。■

 未読の方はぜひまとめサイトから読んでほしいのだが、この物語は、一見、『ガンダム』的な、あるいは『銀英伝』的な、「善悪二元論の否定」から出発する「歴史」の物語として始まるように見える。

 この作品は魔王が勇者に向かって語りかけるところから始まっている。

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」
勇者「断る!」
魔王「どーしてもか?」
勇者「アホ云うな。お前のせいでいくつの国が滅んだと思ってるんだ」
魔王「南の森林皇国のことか?」
勇者「空は黒く染まり、人々は貧困にしずんでいった」
魔王「考え無しに森林伐採して木炭作りまくって公害で自滅したんだろう」
勇者「公害……?」
魔王「あー。えーっと。そうか、まだ判らないか」
勇者「誤魔化すなっ! 聖王国の大臣憑依だって魔族の仕業じゃないかっ!」
魔王「欲の皮の突っ張った大臣が政権奪取と王族の姫君大集合ハーレムを作ろうとして失敗しただけだ。そもそも逮捕された後に魔族の洗脳とか言い出すのは人間の悪人の悪い習慣だと思うぞ」
勇者「ごまかすのか……許せん……」
魔王「誤魔化してない」
勇者「南部諸王国と戦争はどうなんだ。俺は戦場で何百という人間が魔族の軍勢に倒されているのをこの目で見てきたんだ」
魔王「それで?」
勇者「は? 人間世界を侵略してきた魔王、貴様を許しはしない!」
魔王「どちらが侵略したかという点については見解の相違だ。こちらにはこちらの言い分はあるが、まぁ、戦争してるのは事実だなー」
勇者「貴様は悪だ」
魔王「じゃぁ、悪でも良いけど。当然私を殺した後には南部諸王国の王族も全部抹殺して回るんだろうな?」
勇者「は? 悪はお前だけだ」
魔王「人間が魔族を殺していないとでも? 魔族は悪で人間が善だって誰が決めたんだ?」
勇者「……っ」
魔王「そこで『俺が法だ!』とか『俺が神だっ!』とか『俺がガンダムだっ!』とか云えたら、お前ももうちょっと生きるのが楽なのになぁ……」

 ここまでなら、それほど独創的な展開とはいえない。『ドラゴンクエスト』的な善悪二元論の否定。しかし、魔王は勇者に向かい、いっしょに「丘の向こう」を見に行こうと告げる。

魔王「『あの丘の向こうに何があるんだろう?』って思ったことはないかい? 『この船の向かう先には何があるんだろう?』ってワクワクした覚えは?」

 ここでいう「丘の向こう」とは、「はてしない戦争」という「循環する歴史」の向こう側である。「超人類への進化」という「SF的ヴィジョン」でもなく、「はてしない戦争のくり返し」という「歴史的ヴィジョン」でもない、第三の道。それはルルーシュが夢見た「明日の世界」そのものでもある。

 この「第三の道」を具体的に描写することこそが、「その先の物語」の条件となるのではないかと思う。『魔王×勇者』が具体的にどのようにしてこの「第三の道」を開拓しているかは既に書いたから省略するが、重要なのはそこに「世界救済の具体的なプロセス」が詳述されていたことだ。

 その意味で、おがきちかの『Landreaall』もまた、『魔王×勇者』とつよく共振しているように見える(作者自身が共通点を語っている)。これについては、ペトロニウスさんがいずれ語ってくれることであろう。

Landreaall 1 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)

Landreaall 1 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)

 7月18日に開かれる予定のなつみかんオフは、グランドテーマを「その先の物語へ」とし、「先の物語」という概念について徹底的に突き詰めるつもりである。

 その内容はUstreamでリアルタイム放送する予定なので、よければ聴いてほしい。何なら、参加してくれてもいい。枠はあと20名ぶんのこっている(募集記事へはトップのバナーから)。

 ぼくは時代的閉塞感の先の物語を見たいと思う。その火が遂に上がった! そのことにわくわくしているのだ。「丘の向こう」には何があるのか? それはわからないが、いずれにせよ、素晴らしい景色に違いない。はてしない血と泥のかなたにある景色なのだから。