『おまえが若者を語るな!』がいろいろとすごい。

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

 とんでもない本である。いや、これはすごい。読んでいて思わず笑い出してしまった。

 後藤はこの本のなかで、現代を代表する若者論の論客を片っ端からつかまえ、まとめてなで斬りにしている。

 その面子たるや、宮台真司香山リカ荷宮和子三浦展東浩紀鈴木謙介寺脇研宇野常寛、と大物ばかり(宇野さんはちがうかもしれないけれど)。

 ある時代に一世を風靡した論客が、次の時代には批判を浴びる。よくあることではある。しかし、ここまで大勢の書き手がいちどに否定される光景はなかなか見れるものではない。

 論客たちの業績をひと言ふた言で否定しさるその舌鋒はめっぽう鋭く、その意見に賛成するひとにとっては痛快きわまりないと思う。逆に、かれらのファンにとってはいかにも生意気な反逆の書に過ぎないかもしれない。

 ともかく著者の立場は明快であり、論旨も明瞭、非常にわかりやすい。ほとんど90年代以降を支配した言説への「憑き物落とし」の感すらある。

 オタク論と関係が深いところも多いので、いまどきのオタクなら読んでおくべきでしょう。岡田斗司夫にも少しふれられています。

 それでは、その論旨とはどのようなものなのか。実はひと言で説明できる。「いいかげんなことをいうな!」である。

 「若者」というそれじたいあいまいな対象を語るにあたって、後藤はあくまでもデータにこだわり、データを無視する論客を笑殺する。天下の宮台真司に、香山リカに、東浩紀に、かれは問うのである。「で、実証は?」と。

 たとえば、東浩紀について後藤はこう書く。

 結局、この言説は、それまでの若者論のレジーム――要するに宮台の言説である――を、東の「独自」のサブカルチュア論によって(根拠といえるようなものではないが)裏付けたものに過ぎない。端的にいえば、彼に代表される若者論の枠組みに他の視点から光を当てる、あるいは彼などが語っている前提を疑い、(実証性を欠いている)言説を反証するものではなく、単に捏造されたレジームにただ乗りしているものでしかない。故に東の言説の「正しさ」もまた、自分がこういっているんだから、あるいは宮台がこういっていたんだから正しい、という次元のものでしかない。
 客観性を欠いているのである。

 あるいは宇野常寛に対してはこう。

 これは東や宮台の議論が一定の支持を得ているのは、彼らが内容ではなく読者の性愛コンプレックスに訴えたからだ、という主張で成り立っている。東はともかく、宮台についてその分析は正しいだろう。
 しかし同様の(あるいはほぼ似た)批判はそのまま宇野にも返されるべきである。彼の議論も、上の世代の論者と、下の世代のオタクに対する優越感を煽った上での「動員」である。

(特にインターネットを活動の拠点とする)若い論客の中には、宇野の「決断主義」を真に受けているのかどうか知らないが、これからの社会は「第三の道」や「新しいステージ」を志向しなければならない、と「運動」を訴える勢力もある。彼らは、たいてい宮台の思想を批判するが、振る舞いや言葉の使い方(「第三の道」「ヘタレ左翼」)は極めて似通っており、それこそ(宇野のいい方を真似すれば)宮台の劣化コピーに他ならない。

 また後藤はいう。

 宮台の「終わりなき日常」に始まり、「脱社会的存在」概念、東の「動物化するポストモダン」、香山リカの「ぷちナショナリズム症候群」、鈴木謙介の「カーニヴァル化する社会」、渋井哲也(ライター)と三浦宏文(塾講師)の「絶対弱者」(自分の能力に過剰な自信を持っているため、他者を拒絶し、その結果「ニート」などのコミュニケーション不全盛の弱者になってしまうこと。なお、この議論は「ニート」概念への誤解に基づいている)に至るまで、所詮は言葉遊びの産物に過ぎないのであった。

 バッサリ、である。全く容赦がない。ほとんど90年代以降積み上げられてきた若者論の成果を一掃しようとしているように見える。

 後藤によれば、ある世代に生まれたことによってすべてが決まってしまうという考え方は「宿命論」であり、シニシズムニヒリズムに通じる。

 世代論そのものがもはや用済みなのだ、とかれはいう。その代わり後藤が持ち出すものは、古くて新しい文明の利器、科学である。統計と学術的分析をもちい、客観的かつ実証的に事実を導き出すこと。

 ぼくは大枠で後藤の意見に賛成する。個別に見ていけば議論すべき論点はあるかもしれないが、少なくとも後藤の議論は客観的に批判可能なものであるわけだ。何より、きわめてわかりやすい。

 いや、これはぜひ読んでおくべき一冊ですよ。お奨め。