動物の権利怖いよ、動物の権利。


 動物の権利(アニマル・ライツ)のサイトを巡っていたら、こんなQ&Aを見つけた。アニマルライツにかんする疑問質問に対して一つ一つ答えているのだけれど、その内容は相当に怖い。

 たとえば、「動物実験を廃止することによって人の命を救うかもしれない医学的進歩がはばまれてしまう事をどう正当化するのですか?」という質問に対する答えはこう。

  その根拠は私たちが同意を得ていない人間を強制的に実験台にしたりはしない理由と同じです! 我々が人体実験をしない事により得られていない情報は動物実験をやめることによって失われる情報よりも多いことでしょう。

  もしも医学的進歩というものが命を救うためという理由で至上命題となるのであれば、なぜ動物だけがその救うべき命の対象とならずに虐待されなければならないのでしょうか? この世には「不正利得」と呼ばなければならないものがあり、動物実験によって得られる成果はまさにそれに当たるものだということを認めるべきです。

 そして、「動物実験に代わる方法が何もない場合もあるのではないでしょうか?」という質問に対してはこう答えている。

  この質問に対する答えは簡単です:
 「そうだとして、それがどうしたと言うのだ?」

  人間を強制的に犠牲にしなければ得られない様な知識がなくても、私たちは(現在)十分、幸せであるという事を思い起こしてみましょう。私たちは子供に対しても、精神薄弱者に対しても、あるいは(エイズの様に)動物に対する実験からは満足すべき結果が得られない病気の患者に対しても、強制的に実験をしたりはしません。つまり、人間は実験には使わないし、そうしなければ得られない様な知識は放棄するという倫理的決断がすでになされているのです。

  動物の権利の論拠もそれと同じです:人間と実験動物(彼らも人生の主体者です)を区別できる様な道徳的根拠は存在しないがゆえに、動物実験は道徳に反するものであり、廃止すべきものなのです。ナチス強制収容所の囚人に行った実験から得られた知識が道徳的に反するのと同様に、動物実験により得られる、いかなる利益も道徳に反するものなのです。

 ……いや、同じじゃないだろ。

 たしかに「人間と実験動物を区別できる様な道徳的根拠は存在しない」と考えるなら、つまり、ネズミの命もヒトの命も命は命、同じ重さなのだ、と考えるなら、動物実験の問題と人体実験の問題は「同じ」だといえる。

 しかし、そんな考え方に納得できるひとがどれだけいるだろうか。この回答はまわりくどい言い方でこういっているのではないか。「ネズミを殺すくらいなら、ヒトが死んでも仕方ない。なぜなら、ネズミもヒトも道徳的に区別できないからだ」。

 しかし、少なくともぼくはヒトの命はネズミの命よりも重いと考える。ネズミをひねり殺すことでヒトの命が救われるのなら、そうすべきだと思う。

 この考え方はアニマルライツ論者のいう「種差別」にあたるだろうか? そう、あたるだろう。しかし、助けられるとわかっているヒトの命を見捨てるくらいなら、差別論者であるほうがずっとましだと思う。

 たしかに、動物実験に全面的に賛成することは出来ないが、少なくとも、「ヒトもネズミも命の重さは同じなのだ」とする、この種の考え方には、何かうそ寒いものを感じる。

 たとえば、何かの理由で少数のヒトたちおよび大量のネズミといっしょに洞窟に閉じ込められたとする。食料は限られている。いつ救援が来るかわからない。この場合、どう行動するべきだろうか?

 普通はヒトの間で食料を分かち合って日々を過ごすことになるだろう。しかし、「ヒトと動物は道徳的に区別できない」とするなら、当然、この食料はネズミにも分け与えるべきだということになるはずである。

 何かおかしくないか? おかしいとぼくは思うのです。