『指輪物語』と『ゼロの使い魔』の距離。


 瀬名秀明桜坂洋東浩紀の「キャラクターズ」を読んだ、その感想。

読みながら、なぜ自分は「私小説」も「キャラクター小説」もあまり好きじゃないのかわかったような気がした。私小説というのは「私」を書いているわけだけれど、周囲の社会から完全に切り離された「私」というのは本来ありえない。でも私小説は「私」を書きたいので、周囲の社会を「私」から切り離して、いわば社会をキャラクター化して済ませているのではないか。一方の「キャラ小説」は、結果的に登場人物を社会から切り離すことによって、二次創作その他を可能にさせた小説といえるのでは?

つまりその意味で「私小説」と「キャラ小説」は表裏一体の関係にあるのではないか。人と社会は本来切り離せない。しかし人間の認知限界に依存した娯楽性を重視するために社会をキャラ化してわかりやすい敵や憤怒の対象をつくるのが「私小説」。社会の営みや人生といったものから人を完璧に切り離し、キャラ化して自由に遊べるようにしたのが「キャラ小説」。私が面白いと思う小説はそのどちらでもなくて、人も社会も安易にキャラ化しない小説なんだなと再確認した。

たとえばトールキンの『指輪物語』なんかは舞台も登場人物もきわめて類型っぽいのに、読んでみるとまるで「キャラ」という感じがしない。これで人物と舞台のどちらかでも書き割り調になっていたら、たちまち物語はつまらなくなるだろう。確かに読者はトールキンの与えてくれた素材から「キャラ」を抽出できるのだけれど、そこで取り出された「キャラ」は本家のごく一部にしか過ぎず、本家本元はまるで揺るがない。それはつまり『指輪物語』が「私小説」でも「キャラ小説」でもないから。物語のどこもキャラ化していないから。そんな緊張感、ダイナミズムが私は好きなのだろうなと思ったのだった。

 瀬名がいう「キャラ化」という言葉が何を指しているのか、具体的にはよくわからない。しかし、文脈から大体の意味を察することはできる。

 つまり、ある対象をわかりやすく単純化し、輪郭をくっきりさせるること、という程度の意味とだ思う。そして「社会」とは、人物を取り囲む状況全体を指しているのだろう。

 『指輪物語』でいえば、旅立ったフロドを待ち受ける様々な国々、人々の思惑、衰えゆく世界、去りゆくエルフたち、そういうもの。

 一般に小説は、そういう「社会」と、人物の関係性のなかで綴られていく。しかし、「私」を描くことをめざす私小説では、その目的に不要な「社会」を「キャラ化」して済ませてしまうし、「キャラクター小説」では逆に、人物のほうを「キャラ化」して「社会」を切り捨ててしまう。自分はそのいずれも好まない、と瀬名はいっている。

 瀬名がいいたいことはわかると思う。

 たしかに、『指輪物語』の人間(&ホビット&エルフ&ドワーフ&その他いろいろ)描写の深みは、凡百のキャラクター小説をはるかに凌ぐ。

 しかもそれは「社会」と密接にかかわり、切り離せない。フロドの気高さは、魔王サウロンをたおすため「指輪」を山へ運ばなければならない状況があって、初めて輝く。

 フロドの個性を、その状況、「社会」から切り離して「キャラ化」し、二次創作に用いる(フロド×ガンダルフ本を描いたりする)ことは可能だが、それでは本来のフロドの魅力を描ききることは出来ない。その意味で、『指輪物語』はキャラクター小説ではない。

 しかし、一方で、瀬名がいうことはちょっと単純化されすぎているとも思う。

 『指輪物語』のような作品を「普通の小説」とすると、「キャラクター小説」と「普通の小説」のあいだの距離は、絶対的なものではないだろう。

 たとえば、ヤマグチノボルの『ゼロの使い魔』は、最も典型的なタイプの「キャラクター小説」といえる。

 ヒロインであるルイズの個性は「ツンデレ」というテンプレートで表しきれるように見える。非常に容易に二次創作に移植できるたぐいの「キャラ」。そう見える。

 じっさいにこの作品はアニメ化され、ゲーム化され、漫画化され、そしてそのほかにも大量の二次創作を生んでいる。しかし、その実、ルイズの個性もやはり「社会」と無関係ではない。

 たしかに『ゼロの使い魔』の「社会」は、少しも重厚ではないが、その実、ちょっと意外なくらい端正に構成されている。この作品の『ゼロの使い魔』の「社会」性は過小評価されていると思う。

 アニメ版が失敗した理由はそこにあるのではないか。ただ「キャラ」だけを重視し、「社会」の描写を大幅にカットしてしまったことで、物語がもつ力を薄めてしまった。

 たしかに現代では二次創作のたぐいが猖獗をきわめているけれど、それでも、二次創作が原作を超越えるような例はやはり少ない。

 「キャラクター小説」においても、やはりそう簡単に「社会」から「キャラ」だけを切り離し、二次創作に移植することはできないのではないだろうか。

 しかし、一方で、やはり『ゼロの使い魔』と『指輪物語』を同列に置くことは出来ない。フロドとサイトの間には、やはりそれなりの距離がある。

 そして、ぼくはやはり、キャラクター小説が好きなのだと思う。重厚なリアリズム小説も好きだが、それはかならずしもキャラクター小説の代替物にはなり得ない。だって、萌えないんだもん。

 ぼくがよく例としてあげるのが、ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』と、金庸武侠小説

 前者は現代における群像小説の最高傑作とも呼ぶべき名作で、各々の登場人物はきわめて魅力ゆたかに描きこまれている。しかし、それでいて、ふしぎなくらい萌えない。

 あまりにもリアルすぎて萌えがどうこうという感情をはさむ余地がないんですね。

 それに対して、金庸のキャラクターは萌える。べつだん女の子だけじゃなく、全般的に萌える余地がある。その意味で、金庸の作品は「キャラクター小説」っぽい。

 で、ぼくはいくら優れた「普通の小説」を読んでも、やっぱり「キャラクター小説」のことが忘れられないんだよね。

 萌えオタだもん。

文庫 新版 指輪物語 全9巻セット

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ゼロの使い魔 (MF文庫J)

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