何でそんなにアージュが嫌いなのか?

実は、何人かにアージュは凄い嫌い(理由は説明されておりません)と吐き捨てるように言われて話がおわったので、アセティツクシルバーのはしくんのような信者もいれば、こういう反対方向に嫌悪する人も実は多いようで、これは興味深い。どうも、かなり広範に嫌いな人が多いようです。
 

 うん、そうですね。アージュは信者も多いけれどアンチも多い。

 ま、売れているメーカーはほとんどそんなものですけれど、アージュのきらわれ方はKeyやTYPE-MOONのそれとはちょっと種類が違う気がします。

 鍵や型月がきらわれるのは、ようするにその強烈な個性の反動です。ある層に熱狂的に受け入れられるかわりに、べつの層の反感を買うということ。ある意味、しかたのないことだし、人気者の宿命ともいえます。

 これに対して、アージュへの反感は、もっと感覚的な、生理的な嫌悪感の表明みたいなものが多い(気がする)。まきがいさんがぼくの言葉を引用して書いている以下の文章が象徴的でしょう。

 たしかに面白いことは面白いんだけどさ、結局「序章が終わって本編が始まる場面を、いきなりセックスの描写から始めるいやらしさ、気持ち悪さ」がアージュのシナリオの本質なんだもんなあ。底の浅い説教と、驚かせりゃ勝ちの一発芸の連続に慣れてくると、だんだん腹立ってくるんですよ。君ら、プレイヤー馬鹿だと思ってんだろと。プレイヤーにショックを与えたり感動させたりするには確かに有効な方法かもしれないけど、とにかく品がないんだよなあ、アージュの演出は。君望一回くらいならともかく、ワンプレイが長いエロゲで毎回あの気持ち悪さを味わうのはしんどいです。

 ぼくもこの意見にほぼ同意します。

 ぼくの場合、『君が望む永遠』しかプレイしていないので、アージュの作品全体については何もいえません。

 ただ、『君望』1作をプレイしてみただけでも、「このメーカーの作品はもういいかな」という気になってしまう。やっぱりこの「品のなさ」ですね。これが気にさわってしょうがない。

 エロゲに品も何もあるかよ、と思われる方もいると思う。でも、やっぱり、あると思うんです。どんなにエログロのかぎりを尽くしても、その上で品性を感じさせる作品はある。これは山田風太郎忍法帖を読めばわかることです。

 ただ、これだけじゃ何もいっていないに等しいわけで、問題はその「品のなさ」とは何か、ということですよね。

 それは結局、パッケージとしての統一感のなさということに尽きると思うんです。例によってぼくは『君望』一作のことしか語れないわけですけれど、とにかくこの作品にはパッケージとしての「余剰」が多すぎる。

 具体的にいえば、茜と遥の二股で終わる結末や、愛美に監禁されて終わる結末はいったい何のためにあるのかということですね。

 この展開は作品の本筋とはまったく関係ないわけで、削っても何の問題もない。これはもう、ユーザーをいやな気分にさせるためだけにあるとしか思えない。

 べつにきれいごとの純愛ものにしろといっているわけじゃなくて、作品全体を見たときにそのエピソードを組み込む必然性があるならば、どんな展開を用いてもらってもかまわない。でも、ぼくにはその必然性は感じられないですね。

 もちろん、これらの展開は、ユーザーをおどろかせ、話題を提供するという意味では、成功しているかもしれません。じっさいにネットではそうとう話題にのぼっていますしね。

 まきがいさんが「たしかに面白いことは面白い」と書いているのは、そういうことも考えあわせているのでしょうし、こういうやり方を高く評価するひともいるとは思う(このひととか)。

 だから、ぼくはそういうやり方が悪いとは思わない。ただ、よしあしじゃなく好き嫌いでいうなら、好きではない。

 作品全体を貫く思想を感じないんですよね。受けると思ったものを節操なく詰め込んだような印象を受ける。

 だから、ぼくはどんなにきれい事の絵空事といわれようと、鍵とか型月とかのほうが好き。一切のきれい事抜きで凄惨な物語をつむぎ出しながらさいごには美しい結末へと導く『SWAN SONG』はもっと好き。

 ただこのいやらしさ、気持ち悪さというものは、エロゲを語るとき無視していいものでもないと思うんです。どんなにきれい事いってもエロゲがポルノであることは間違いないんですから。

 ではそのいやらしさとは何なのか、という話はまた今度にしましょう。もし今度があったらの話ですが。

君が望む永遠 DVD specification 通常版

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