愛国心を表明することは悪なのか? 『HINOMARU』を考える。

 RADWIMPSの『HINOMARU』という曲が発売された。露骨に日本に対する愛国心を表明した歌詞が賛否を呼んでいるようだ。

 しかし、思うに、愛国心そのものが悪いのではない。愛国心をいいわけに同調しないものを攻撃し、排斥することが悪なのだ。愛国心そのものを否定することはできない。何を愛そうと、憎もうと、他人に強制しなければそれ自体はその人の自由。

 ぼくの立場は単純だ。国を愛するのも自由。愛さないのも自由。愛するのも自然。愛さないのも自然。愛を表現するのも自由。しないのも自由。他人に強制しない限り好きにすればとしかいいようがない。

 日本人が日本を愛さないことを否定できないのと同様、愛することも否定できない。すべては個人の自由。あたりまえじゃないか。何か議論の余地はあるかな。

 国を愛するというと、すぐに右翼、保守という言葉が浮かび、危険な印象を与えるのはわかる。だが、ここは理性的に問題を切り分けするべきだ。何かを愛することを止めることはできない。何かを愛さないことを非難できないことと同様だ。ごく単純な話じゃないか。

 歌詞そのものに問題があるのではなくその影響が問題なのだというのなら、それは歌ではなく影響を受けておかしなことを言い出した人を個別に批判するべきだ。また、歌詞の内容に問題があるなら、具体的にどこが問題なのか明確に示して批判するべきだろう。粗雑な印象論で批判するべきではない。

 国を愛するも、愛さないもその人の自由だ。ある萌えキャラに萌えるも、萌えないも自由であるように。ただ、自分の萌えを他人に押し付けることがいけないように、愛国心も押し付けちゃいけない。その程度の話かと。

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、はひとの自然な心理ではあるだろう。しかし、そこでグッと我慢して坊主と袈裟を切り分けられるようでないと人を批判する資格はないと思う。

 で、『HINOMARU』を購入して聴いてみた。いい曲ですね。

 『HINOMARU』が普通にいい曲だとわかったので、ぼくの意見はそこで終わりかな。あ、歌詞のセンスがダサいとかはいくら言ってもいいと思うよ。それは個人の感想なので。逆に言うと、個人の感想以上の普遍性をもった意見にするためには、一定の論理性がないといけない。

 保守的/愛国的/右翼的な「印象」を受けるからダメだ、という意見は、個人の感想としてはありであっても、普遍的な批判として機能するだけの論理強度を持たない。そんなことではだれも納得させられないだろう。べつの印象をもつ人もいるよ、で終わり。

 もし批判するとしたら、愛国心を表明すること自体が悪だ、はどう考えても成り立たないので、表明のしかたが不適切であるということになるかな。歌詞の内容を具体的に見て行って、不適切な個所があれば批判していい。ぼくは特にないと思うけれど。まあ、歌詞のセンスに関する印象論はともかく。

 日本は歴史が歴史だから、愛国心について警戒することはよく理解できる。また、愛国心そのものと愛国心の強制は紙一重ではある。しかし、紙一重ではあっても違うものであることはたしかなので、愛国心そのものを責めることはできない。責めれば、逆にそれは狂った力をもつだろう。

 たとえば「日本が好き」、「日本という国を愛している」などと素朴に表明したとして、「右翼的だ」、「過去の歴史を知らないのか」、「そういう思想が戦争をもたらすのだ」などと批判されたとする。そういうことがあるようだと、それらの意見に反発を感じるのも当然ではないか、とぼくなどは思う。

 ぼく自身がどちらかといえば左がかっている人間だから(まあ、ぼくらの世代はだいたいそう)、愛国心という言葉に条件反射的に警戒を抱いてしまうところはある。しかし、ここはぐっとこらえて、理性的に判断したいところだ。愛国心同調圧力によって否定されるべきものではない。

 ただの想像だが、『HINOMARU』の作詞者の野田洋次郎さんは、おそらく素朴に日本が好きだという愛国心を表明しづらい同調圧力があると感じ、それに対するアンサーとしてあの歌詞を書いたのではないか。そういう状況背景が若年層にありそうだということをまずは認識するべきだと思う。

 ゆずやRADWIMPSは「国歌はこっそり歌わなくちゃ」という言葉に象徴されるような、素朴な愛国心が抑圧される空気が日本にはあると感じており、それに対するカウンターとして作詞している。少なくともそのつもりである。そういうことが認識されていないと、話はずれるばかりだと思う。

 「そんな空気はない」という意見はあるだろう。しかし、現実にゆずやRADWIMPSの曲は極端な批判のされ方をしているではないか? この批判内容の歪み方こそがそういう空気そのものだ。批判するのなら、適切に批判するべきで、故に愛国心の表明そのものを否定するべきではない。

 いい換えるなら、若者が右傾化するとすれば、それは素朴な愛国心の発露そのものを否定しようとする人々の責任でもある、ということ。愛国心が暴走しないよう監視することは必要だが、逆にいえば、暴走してもいない愛国心を否定することは、若者をかえって反発させ右傾化させるだろう。

 本来、批判するべきでないものを批判し、抑圧するべきでないものを抑圧すると、あいては反発を感じて過激化するんだよ。だから、愛国心を他者に強制しようとする偏狭な右派を叩くのはいいけれど、単に素朴に愛国心を発露しようとする人を叩いちゃいけないわけ。この違い、わかってもらえるかな。

 『HINOMARU』の歌詞が歪んでいないかというと、歪んでいるとは思う。右がかった印象を受けることもたしかだろう。しかし、「右でも左でもない」と自認する人にそういう歌詞を書かせたのは、素朴な愛国心そのものを抑圧しようとする人々でもあるかもしれないということです。伝わるかな、この話。

 「愛国心」と「愛国心の押しつけ」を区別しないでまとめて叩いたほうが楽だということはわかる。でも、そういう理不尽な叩き方をすると当然、叩かれたほうは不満に感じ、右寄りの表現に走ることになる。それをまた理不尽なやり方で叩けば、さらに過激化する。批判するならするで適切に批判するべき。

ドラマ『幸色のワンルーム』放送の是非をめぐるやり取り。

 以下の文章は、LINEで海燕とてれびんがドラマ『幸色のワンルーム』の放送の是非について交わしたやり取りをもとにし、それにわかりやすいよう加筆修正創作捏造をくわえたものです。この問題について考えている人の一助になればと思い公開します。



てれびん:いまから、いくつか『幸色のワンルーム』の論点だと思われる話をするよ。海燕さんは『幸色のワンルーム』放送禁止に反対の意見だよね。ぼくは賛成派の立場で主要な批判点を並べてみるから反論してくれる?

海燕:わかった。いいよ。

てれびん:まず、『幸色のワンルーム』は犯罪を美化しているという批判があるよね。これについてはどう思う?

海燕:作品の内容が犯罪を美化しているということ自体はおおむね妥当だと思う。でも、フィクションで犯罪を美化することって一概に悪いことだといえるのかな。『ルパン三世』は泥棒を美化しているよね。『DEATH NOTE』や『コードギアス』はテロリストを美化しているという見方もできる。

てれびん:ふむ。

海燕:極端ないい方をすると、『ドラえもん』だってジャイアンのび太を仲良く描くことによっていじめを美化していると言えるんじゃないか。でも、さすがに『ドラえもん』を規制しようとする人は少ないでしょう。『ドラえもん』を犯罪を美化しているという理由で規制できないのだとしたら、『幸色のワンルーム』だってできないのではないか、というのがぼくの立場。

てれびん:『幸色のワンルーム』と『ドラえもん』をいっしょにするのはさすがにどうかと(苦笑)。

海燕:そうかな。『ドラえもん』のなかでのび太は日常的に暴力的ないじめを受けているよね。これはあきらかに犯罪じゃない? もし、いじめと誘拐は深刻さが違うというのなら、いじめを軽く見ていることになるんじゃない。ぼくはそう思うけれど。

てれびん:ふむ。まあ、次へ行こうか。

海燕:うん。

てれびん:『幸色のワンルーム』から影響を受けて犯罪者が増えるんじゃないか、という意見もあると思うんだけれど。

海燕:フィクションから影響を受けて犯罪が増えることを示すデータは何もないです。以上。

てれびん:ちょっと切り捨てすぎじゃね。

海燕:でもさ、そうとしかいいようがないんだよ。研究的には映画やゲームの影響で犯罪が増加するという意見はほぼ否定されている。まあ、ここらへんは自分で調べてもらったら良いけれど、いまさら科学的に否定されている意見を持ち出されても困る、というのが正直なところ。

てれびん:でもさ、じゃあ、海燕さんは『幸色のワンルーム』を見て犯罪を犯す奴が絶対にいないと言い切れるわけ? もし事件があったらどう責任を取るの?

海燕:絶対にいないとはもちろん言い切れない。でも、それ言うならそれこそ犯罪報道の影響を受けて人を殺す奴だって出るかもしれないよね。じゃあ、犯罪事件のニュースは禁止するべきか、という話になる。それはさすがに無理でしょ。ぼくはそういう話だと思っている。

てれびん:じゃあ、ここからもっと主要な論点になるんだけれど、そもそもこのドラマの原作マンガって「朝霞市女子中学生監禁事件」の直後に描かれたものなんだよね。それでさすがに事件の影響がないとは言い切れないんじゃない?

海燕:直後じゃない。

てれびん:違うの?

海燕:うん。警察が同事件の犯人を逮捕したのが2014年3月31日。『幸色のワンルーム』の原形となるマンガがネットに発表されたのが同年9月20日。約半年のタイムラグがある。

てれびん:そっか。それはわかった。まあ、それでも直後と言えなくはないと思うけれど。

海燕:まあね。また、事件の初公判の直前なので、事件は再び報道されてはいたらしい。あと、これはぼくは確認してはいないし、いまから確認することはむずかしいんだけれど、事件をもとにした二次加害言説、犯人と被害者は恋愛関係にあったとかそういう妄想の言説はこの時点でまだ流通していたものと思われる。これは重要なポイントだね。

てれびん:ほほう。じゃ、まあ、直後じゃないにしても、その種の報道なり、二次加害言説の影響を受けて『幸色のワンルーム』のもとになるマンガが描かれた可能性はあるって認識でいい?

海燕:いい。

てれびん:いいのか。じゃあ、やっぱりマンガは事件から影響を受けているんじゃん。それはさすがにダメだという意見もあって当然じゃね?

海燕:当然だとは思う。ぼくは賛同しないというだけで。

てれびん:そか。なんで賛同しないの?

海燕:まず、作者は事件の影響を否定している。独立した作品として読んでほしいという声明を出している。

てれびん:いや、でも、それウソかもしれないじゃん。

海燕:そう、ぼくもだから作品は無罪放免だ、とは思わない。というか、たぶん、事件そのものはともかく、事件への二次加害言説には影響を受けているんじゃないのかな。これは確証がないことだから何ともいえないけれど、あっただろう、という前提で話を進めてもいいよ。

てれびん:わかった。でも、そうなると、それはさすがにアウトじゃない? だって、実在の事件をモデルにしていて、被害者の人権を傷つけていることは間違いないじゃん。

海燕:どうして?

てれびん:どうしてって……。それはさすがに責任逃れじゃね? だって、いま、「事件への二次加害言説には影響を受けているんじゃないかな」って言ったじゃん。

海燕:言ったよ。たぶんの話だけどね。でも、「影響を受ける」という言葉の意味がここでは重要。作者はおそらく、事件の二次加害言説から物語のアイディアのヒントを得た、かもしれない。しかし、それは実際の作品には「子供を誘拐した若者と少女がいちゃいちゃする話」というくらいにしか反映されていない。つまり、具体的な事件を連想させる「影響」はほぼ作者の頭のなかで濾過されていて、作品には投影されていない。

てれびん:うーん、その理屈は無理なんじゃ。だって、影響はあったんだよね?

海燕:あったかもしれないし、なかったかもしれない。でも、先にいったようにあったという前提で話を進めよう。ただ、影響があったとしても、それは作品には色濃く出ていない、というのがぼくの立場。

てれびん:ふむ、まあいいよ。

海燕:仮に、作品のなかに事件や被害者を特定できる箇所がそのままのこっていたとしたらそれは問題だとぼくも思うよ。でも、そうじゃない。『幸色のワンルーム』はいってしまえばごく平凡なマンガで、特定の事件や個人をモデルにしたと明確に同定できる箇所はない、といっていいと思う。

てれびん:待て待て待て待て。作者は事件から影響を受けたんでしょ。だったら、マンガには事件の影響が残っているはずなんじゃないの?

海燕:そうとは限らない。最初のヒントをどこで得たかということと、それが作品に反映されているということはべつ。たとえば、ぼくがあるアイスクリームのCMを見て、アイスに毒を仕込む小説を書いたとしよう。でも、そのアイスのCMのことがそのまま作品に残っているとは限らないだろ。そういうこと。

てれびん:うーん……。

海燕:さっきもいったように、この『幸色のワンルーム』というマンガは良くも悪くもありふれた凡庸な筋書きだと思う。たしかに、批判者がいうように特定の事件がなかったらそんなに話題にもならなかったという可能性はなくもない。つまり、よくある乙女のドリームマンガなんだ。これを特定事件への二次加害と位置づけるのは、ぼくは無理だと思うよ。

てれびん:だったら、事件を利用して売り上げをのばしたという見方もできるでしょ。それはさすがに卑劣じゃね?

海燕:それは「受容のされ方」の問題だよね。ぼくはそれを問題視するのは間違えていると思う。だって、作者は作品の「受容のされ方」をコントロールできないから。司馬遼太郎の作品だって狂信的なネトウヨに支持された一面はあると思うよ。でも、それは司馬作品の責任じゃない。

てれびん:ふむ……。まあいいとするか。じゃあ、海燕さんは例の事件の少女への二次加害が増えるのはしかたないという立場なんだね? それはひどいと思うけど。

海燕:そうはいっていない。ただ、『幸色のワンルーム』によってその種の二次加害が増えるなら、二次加害の加害者を批判し糾弾するべきだと思う。作品を責めるのは筋違いという立場だね。

てれびん:ふむ。

海燕:たとえば、『相棒』のドラマを見て、「警察は腐敗している!」という人がいたとして、それは『相棒』を放送中止に追い込む理由にはならないだろう、というとわかりやすいかな。その種のバカは批判されて当然だけれど、それは『相棒』が悪いわけじゃない。

てれびん:じゃあさ、二次加害と同種の妄想を楽しんだら犯人と同罪だという意見もあるんだけれど、それは?

海燕:この記事(http://rainbowflag.hatenablog.com/entry/2018/06/03/204703)の意見だね。ぼくはそうは思わない。なぜなら、フィクションである割り切って架空の物語を楽しんでいるに過ぎないんだから。

てれびん:それはフィクションなら何でも無罪だってことじゃん。ひどくね?

海燕:そうじゃないよ。ぼくはフィクションのなかでも特定個人、ないし不特定多数への明白な人権侵害があったら批判されてもいいと思う。放送中止もやむを得ない場合もあるだろうね。でも、この場合はそれにはあたらないと思うんだよ。だって、作中に具体的な人権侵害箇所がないんだから。

てれびん:でも、作者は事件の影響を受けているわけでしょ。

海燕:さっきもいったようにそれはわからないけれど、そうだと仮定して話を進めよう。ぼくも、もし作者が「この物語のヒロインのモデルは彼女です」などと述べているなら問題だと思う。批判も当然だろう。なぜなら、それによって物語と事件が同定されるから。でも、そうじゃない以上、この物語を例の事件の被害者への名誉棄損と見るのは無理だろうという立場だね。

てれびん:ふむふむ。

海燕:あたりまえのことだけれど、創作作品での名誉棄損は作中に名誉棄損箇所があって初めて成立する。具体的には、特定人物をダイレクトに連想させる箇所が作中にあるならアウトの可能性は高いだろう。でも、今回の例に限れば、そうじゃないとぼくは思っている。もし違うなら具体的にどの箇所が事件を連想させるのか指摘してほしい。

てれびん:ふーむ。じゃあ、もうひとつ。これはぼくがある人から聞いた意見なんだけれどさ、まず前提として女子中高生には現実と創作が完全に分けられない子もいるんだと。で、生活できないような薄幸の男にあこがれる層は一定数以上いると。これはいい?

海燕:いいよ。

てれびん:で、そういう奴の多くは『幸色のワンルーム』で描かれているようなファンタジーを信じ切って突っ走ると。まあ、そういう層があるという前提ね。

海燕:うん。わかる。

てれびん:でね、それでもまともなリテラシーの教育がもう少ししっかりしてたらいいんだけど、『幸色のワンルーム』がドラマ化されると、夢を夢見る乙女たち(家出をしたい、ちょっと貧困層の女の子)が、家出泊めるよおじさんに騙されてしまうかもしれない、と。

海燕:なるほど、一理ある。

てれびん:その可能性がある以上、自分の立場では反対の意見をとらざるをえない、という話だった。あと、同じ被害にあうにしても、せめて未成年ではなく成年であってほしいという意見だったかな。

海燕:わかる。でも、それをいうなら、恋愛幻想を振りまく少女漫画は同じ意味で有害なんじゃないかな。たとえば、いま、パワハラ的行動を取るドS男子を美化した少女漫画が売れているけれど、あれも夢と現実の区別がつかない女の子を性被害へ追いやる可能性は高いと思うよ。

てれびん それも言ったよ。だから昔からそれは問題だと思っていると。でも、いまはネットがあるのと、ドラマ化したら広い層に届いてしまうのと、その辺りを鑑みてわたしは反対の立場だと。教育が充実していてセーフティネットがあるなら、ドラマ化くらいばんばんやれという意見だった。

海燕:理解できる。ただ、ぼくは論理の首尾一貫性をとる。ドS男子恋愛漫画を否定できないなら、『幸色のワンルーム』も否定できない。

てれびん:それからまあ、『幸色のワンルーム』は特定事件を背景にしていて、その事件においては被害者は犯人に対して憎しみを抱いていたにもかかわらず、逆に犯人は『幸色のワンルーム』的な妄想を抱いていたという事実から、グロテスクなものを感じて嫌だと。

海燕:『幸色のワンルーム』が犯人や、二次加害の加害者たちの妄想に近い内容でグロテスクだというのもわかるし、ぼくもそう思う。ただ、おそらくその歪みがあの作品の魅力でもあるんだろうね。グロテスクっていうなら、『Gunslinger girl』なんてもっとグロテスクなわけだし。

てれびん:そうかもね。まあ、反対意見として納得はあった。

海燕:うん。

てれびん:ちなみに、ぼくは数字がポイントだと思うって言ったら、まず、被害が出てほしくない、と。まあ、それはそうだなと思ったね。そうは言っても被害は起きると思うところはあるけれど。

海燕:それは何を優先するかの問題だよね。自動車がなければ交通事故は起こらない。でも、日本は自動車がある社会を選んでいる。自動車を用いるメリットがデメリットを上回っていると判断されているわけだ。同じことがフィクションにもいえるんじゃないか。

てれびん:でも、それだとフィクションはなくてもいいという意見もあるよね。あるいは、「そういう」フィクションは。

海燕:うん。あるね。そういう話なら問題は次のレベルに移る。フィクションは社会においてなくてもいいものだから、すべてのフィクションを全面禁止にしようというならある意味、理屈は通っているとぼくは思う。賛成はしないけれど、論旨はわかる。

てれびん:まあね。極論だけどね。

海燕:極論だけど。ただ、社会に悪影響を与えるフィクションだけ取り除こうということだと、どうやってそういう作品を選び出すのか、という問題がある。そもそも、何が悪影響と認定するのか。仮に『幸色のワンルーム』のドラマを見たら薄幸な少女が家出しやすくなるとして、それを完全に悪影響とのみいえるのか。うちにいるより家出したほうが幸せになれる例も皆無じゃないだろう。

てれびん:ふむ。

海燕:その切り分けは不可能だと思う。どうしたって、「こういう悪い内容の作品は青少年に悪影響を与えるに違いない」といった、思い込みに満ちた非科学的、非論理的な規制論が幅を利かせることになるだろう。だから、ぼくは表現の悪影響を考慮して特定の作品を規制することには反対かな。

てれびん:でもさ。

海燕:うん。

てれびん:その人は、全然、海燕さんに話通じてない気がしてそこは微妙な気持ちがあるって言っていたよ。海燕さんはとにかくフィクションにアウトがあるのがやだって立場だから平行線にしかならないし、その点では被害がでるくらい何てことないって言ってるようにも見えるよ……。

海燕:そっか。傷つくな……。第一に、ぼくは「フィクションにアウトがあるのがやだって立場」じゃないつもり。あまりにも危険だったり、露骨に人権侵害が見られるフィクションなら放送中止もやむを得ない場合もあると思う。ただ、今回はそうじゃないと思っているというだけ。その理由はいままで述べた通り。

てれびん:うん。

海燕:で、第二に「被害がでるなんて何てことない」なんて思っていない。しかし、その種の被害だけが絶対の意味をもつとも思わない。つまり、犯罪事件の被害者が出ることはもちろん重大なことだけれど、その可能性を少しでも下げるためならテレビドラマの一本くらい放送中止に追いやられてもやむを得ないとは思わない、ということ。

てれびん:うーん。

海燕:あと、「見える」のじゃなくて、「あなたがそう見ているのでしょう」ということは思うかな。大半の人の意見がそう見えるということに一致しているなら考慮するけれど。

てれびん:ふーむ。その人がいうにはね、わたしは作者本人や出版社だけでなく、未成年に対して大人が責任を持っていると感じているんだと。大人全員がね。

海燕:うん。そうだね。

てれびん:で、社会はとりあえず大人の声で作ってるものだから、オタクは弱者かもしれないけれど(もうそんなことないか)、成人という強者なので、その楽しみや主義主張の気持ちよさで子どもにツケを回すのにはやはり違和感があるんだと。

海燕:なるほど。

てれびん海燕さんは自分が大人なことをカウントしたくないように見えるときがある。永遠にモラトリアム時期の自分のサイズが、自己の規定サイズになってるような……。今回見ててこわいのはそこですね、と。

海燕:じゃあ、返答しようか。まず、「見える」のじゃなくて、「あなたがそう見ているのでしょう」ということはもういったよね。

てれびん:うん。

海燕:で、今回、この件を「オタクの楽しみや主義主張」のために「子どもにツケを回す」と解釈するのは非常に違和感がある。だって、『幸色のワンルーム』って、成人オタク向けの作品というよりは、若年女性向けの作品だと思えるから。そもそも、そうだからこそ「子ども」に悪影響が及ぶという話じゃなかったの? 成人オタクが中心に読んで「子ども」はほとんど読まない、見ないのなら「子ども」への悪影響を心配する必要ないでしょ。

てれびん:なるほど。

海燕:まあ、このマンガやドラマがそうかどうかはともかくとしてさ、一作の漫画があるから生きていける、という子供もたくさんいると思うわけ。その子供から読書なり視聴の権利をわけもなく取り上げることを、「大人の責任」だとはぼくは思わない。たとえ、その子供がまだ未熟で、十分に作品を消化し切れないかもしれないとしてもね。

てれびん:うん。

海燕:あと、ぼくが大人に見えない、モラトリアムに自分を規定しているように見える、ということは、まあそう見えるんだな、というしかないね。ネットにはぼくより子供っぽい大人が山ほどいるように見えるので、ぼくはまだマシなほうだと思っているけれど。

てれびん:うん?

海燕:そうでもないのか……。傷つくな……。

てれびん:うん。で、その人がいうにはね、海燕さんが未成年の自分をかばいたくて論を張ってるんだろうとも思うんだけど、実際は成人でしかないからアンバランスだし、思っている以上にすごく強い主張になってるんだと思う、と。ていうか、わりと、言い負かしたい欲があるよね、『幸色』実写化を認めない人たちを。その辺が意見を硬くしてるのかなーとか思ったよ、と。

海燕:ふむ。具体的にどこがアンバランスなのか教えてもらわないと何とも答えようがないかな。ぼくの態度に慇懃無礼なところがあるのは認めるよ。ていうか、じつは意識してそうしているところもあるんだけれど、それは主張の内容とは関係ないし、急に優しくて柔らかい人間になれっていわれても無理だよね。

てれびん:ふむ? でも、まわりを怒らせたり傷つけたりするリスクがあるよね?

海燕:それはあるね。でもさ、まわりを怒らせたり傷つけたりするのって単純に悪いことだといえるかな? 少なくともぼくは、一方的にだれかをこうだと決めつけたり、罵倒したりはしていないつもりなんだけれど。それでも、怒ったり傷ついたりする人はいる。そういう人に配慮できるようになるのは、ぼくはちょっと無理かな。

てれびん:うーん。そうじゃなくて、態度の問題だと思うんだけれど。もうちょっと優しく、柔らかく、思いやりをもって接するべき、って話なんじゃない?

海燕:そりゃ、理想はそうするべきだと思うけれどさ。ぼくには無理かなあ。それが人間として未熟だといわれたらそうだろうけれど。いまでも言説の切っ先に鞘をかぶせて、あふれ出る悪意を抑えているんだからね。

てれびん:そうなの?

海燕:そうなんだよ。

てれびん:ちなみにその人が言うのはさ、放送前に5分間でも、実際の誘拐は許されないとか、同様の被害あれば窓口こことかの紹介動画あったら全然立場は変わると。表現に反対しているというより、予算規模や公開規模に対して取り扱いの雑さに反対してるという意味、とのことだった。

海燕:ふーん。まあ、そこらへんの表現や広告の雑さはぼくも気になっていて、いまはセーフだと思っているけれど、この先アウトになる可能性は十分にあると思っているね。そうなったら旗幟をひるがえすよ。その人がどう思っているかはともかく、ぼくはべつに何が何でもすべての表現を守ろうとしているわけじゃないから。

てれびん:あとはね、被害者になりえない立場からの意見は、被害者だったひと、被害者になりかねなかった人からみたら、すごく残酷にみえるときがあるよ。その点はたぶんLINEを見たかんじだとどう加工してもどうにもできないよ。被害者に寄り添わない、俺は被害者ではない、という表明に見えるから。ともいっていた。

海燕:そうかね。いや、でも、被害者がじゃない人が「自分は被害者に寄り添っているよ」という態度を見せたら、そっちのほうが欺瞞に満ちて気持ち悪くないですか。やろうと思えばできると思うけど。やろうか?

てれびん:うーん……。そういうことじゃないと思うんだけれど。

海燕:ちなみにぼくはいじめで自殺しようとしたことがある人間で、それで精神病院に入院を勧められたことがあるし、いまでも自傷をやめられないけれど、いじめ被害者の気持ちは被害者にしかわからないとかそういうことをいいだそうとは思わないよ。それは被害者の立場を特権化する不健全でアンフェアな議論に見える。

てれびん:いや、そういういい方が反発を呼ぶんじゃないかな(苦笑)。

海燕:そっかー。そうだよね。でも、じゃあ、どうすればいいんだろ? この件に関してはぼくが被害者でも被害者になりそうな人間でもないという事実は曲げられないし、だからといって沈黙するわけにもいかない。もうちょっと思いやりをもって接しろってことか。これでも十分に話の切っ先を鈍らせているんだけれどなあ。

てれびん:ちょっとした話しかたしだいだと思うんだよね。

海燕:うん。まあ、そこらへんは今後の課題だね。

てれびん:うん。で、さらにその人がいうには、まあこの問題、女性側からはけっこう厳しい態度にならざるを得ないというかね。10人中10人がみんなどうやっても痴漢とかセクハラにあう人生だからね。これを語ることでそう扱われた自分の記憶に触れざるを得ないから、みんなトゲトゲしくなりやすいとは思うよ。そういう生々しさに対して、冷静にいたい、というだけでも過剰な人からは「結局他人ごとこねくりまわして遊んでるだけじゃん」とか見られかねなくてちょっとだいぶリスキーだね、と。

海燕:そのリスクは引き受けるよりほかないよね。で、その過剰な人の批判ははっきりいって不当だと思う。当事者の「生々しさ」はもちろん無視されるわけにはいかないけれど、だからといって常に最高のプライオリティをもつとも限らない、というのがぼくの立場。当事者の生々しさというならさ、ぼくが精神障碍者職業斡旋施設でどんな目にあったか話そっか?

てれびん:いや、いいけどさ。そういう態度自体が攻撃的だとみなされるんじゃね?

海燕:これが攻撃的だというなら女性の立場の「生々しさ」を尊重するべきというのも攻撃的なんじゃないかな……。まあ、わかるけれどさ。たしかに「生々しい」問題に関して語るときには、簡単には冷静でいられないことはわかる。そこに「まあまあ、冷静に話しましょう」という奴がいたら腹が立つかもね。

てれびん:そう思うよ。

海燕:まあ、ぼくは人類存在へのふつふつとした怒りを抱えて生きているので、それを八つ当たりぎみにして論理の言葉で語っているところはあるかもね。でも、じゃあ、どうすればいいの?って思うんだけれど。論理以外の何で話せるの?って。

てれびん:うーん。

海燕:たしかに、ぼくの抱えている怒りと憎しみと悪意がいくら抑制してもにじみ出てしまっているというところはあると思う。で、感情は抑制してもなくなるわけじゃないので、どんどん風船がふくらむように限界が近づいているのはたしかかもね。

てれびん:ふむ。

海燕:じっさい、ぼくは自分に課しているリミッターを外して悪意をそのままに露出させたら、恐ろしく残酷になれる自信はある。たとえ中二病だと笑われようとそう思う。抑制しているからこれくらいで済んでいるのであって、感情が爆発して抑制しなくなったら相当ひどいことになるよ。

てれびん:まさにそれを心配されているんじゃないの? そういうひどさを自慢するような態度が子供っぽいって思われているんじゃ。

海燕:そうね。じっさい、ぼくは自分が立派な大人だとは思わない。ただ、大人に求められる最低限のルール、悪意の刃をさやから出さないということは守っていると思っているということだよ。だから、ぼくの態度が問題だとしても、今回、ぼくは自分の感覚の「生々しさ」をいいわけにして、抑制しようともせずに他者に悪意をぶつけてまわる人をたくさん見かけた。そういう人たちはもっと問題だと思うんだけれど、そういう人たちはどうなんだろう。

てれびん:それとこれとはべつの問題だと思うよ。

海燕:そうか。そうだね。まあ、それも今後の課題かな。これくらいで終わりにしておこう。

てれびん:うん。

海燕:まあ、その人の主張はよく理解できるし、ぼくも反対の立場でもいいんだけれどね。今回はぼくはこっち側かな、と。その人に意見をくれてありがとうと伝えておいて。

てれびん:うん。じゃあね。



 さらに、補足として、海燕がマジへこみしたあとの海燕とてれびんのやり取りを掲載しておきます。



海燕:それにしても、ぼく、そういうふうに思われていたのか。辛いなあ。マジへこむわ。

てれびん:んー、今回はそう見えた、ってことなんじゃないかな。

海燕:ぼくはこのパターン、ほんとにダメだね。毎回、同じパターンで落ち込む。

てれびん:だよね。そこは誤解されやすいと思う。海燕さんのロジックが第三者的に想定しにくいのだと思うよ。ぼくも最初、わからなかったもん。

海燕:ふむ。どういうところが?

てれびん:こだわりの理由がわかりにくいかったかなあ。一見、単に人の言うことを聞かない人に見える。

海燕:なるほど、まあ、わかる。

てれびん:興味を持って見ていると、そのうち、そうではないなとわかってくるのだけれどね。

海燕:そうではないつもりなんだけれどね。納得いく説明を受けたら納得する。ただ、そこまでいくまでしつこいというのはあるかなあ。

てれびん:納得するポイントがわからない人にはわかりにくいんだろうなと思うね。

海燕:そのつどいちいちここが納得いかないと言っているつもりなのですが。

てれびん:うん。そのポイントで同意が取りにくい相手がいるということね。

海燕:うーん。同意が取れないのは仕方ないとして、折れないといけないものだろうか。

てれびん:納得いかなくても納得したふりをしてほしい人はいるよ。アンフェアだけれど。

海燕:わかるけれどね。ぼくはそれは相手に対して不誠実だと思うんだよ。人をバカにした態度だと。

てれびん:ぼくもそう思うよ。

海燕:うん。

てれびん:でも、その相手にとっては海燕さんの態度が不誠実に映るんだろうね。

海燕:わかるけれどね。だから、だだちゃ豆さんに理解されなくてもしかたないと思う。でも、友達からあなたはまったくわかっていないといわれるとショックだよね。わかった上で同意していないつもりなんだけれど。

てれびん:うん。

海燕:あのさ、てれびんとも話が合わないことはよくあるじゃん。

てれびん:あるよね。

海燕:うん。で、おたがいになんでこれがわからないんだって思うのはわかるんですよ。でも、そこで人格の未熟さを指摘されると辛い。ぼくはね。

てれびん:うん。

海燕:つまりさ。普通は論点がもっと前にあるってことなのかな。相手に対する譲歩が足りないと。完全に理屈が通らないと納得しないっていうのは、まったく納得しないのといっしょだと。

てれびん:勉強したら女性の苦しみはわかるはずなのに、勉強しないというところが問題だと考えているという人はいるかもしれないね。

海燕:ふむ。

てれびん:「わたし(たち)」の苦しみに共感してくれるか、というところもひとつのポイントなんだろうね。理屈を述べるのではなく、わかってほしいと。論理的じゃないという批判もできるけれどね。そういうと、怒る女性も多いだろうけれど。

海燕:いやさ。ぼくは、女性とはそういうものだとか、それが女性たちの生得の特徴だとかは思わない。もちろんね。ただ、どっかで学習する人は少なくないのかもね。

てれびん:うん、でさ、女性は苦しんでいるんだと。そうならざるをえない苦しみがあるんだと。だから、配慮しろと。そういうふうにいう人はいるんじゃないか。

海燕:んー。それでいいの?

てれびん:いいの、とは?

海燕:いやさ。そう主張する人はそう扱ってもらえば満足なのかなと。

てれびん:それは微妙かな。満足する人は一定数いるだろうけれど。

海燕:うーん。そうなのか。ぼくは嫌だな。ようするにさ。ぼくは理屈が通ったら納得するつもりなんだけれど、ある種の人たちから見ると、それは一切納得しないのと同じに見えると。そういうことなのかな。

てれびん:厳密に言うと、違うけれど価値としてはほぼ同じ扱いになるというほうが近いかな。

海燕:うーん、なるほどね。ちょっとわかってきた。ぼくは女性だからといって特別に配慮したりするのは女性を見くびった行為だと思うんだけれど、現行の社会ではしかたない側面もあるということかなあ。もちろん、今回、意見をくれた人はそういうことの問題点はわかっていると思う。それでもそういう扱いが必要なんだってことだよね。なぜなら社会が成熟していないから。

てれびん:うん。そういう立ち位置なのかもしれないね。

海燕:なるほどね。わかってきた。つまり、理屈の正しさだけを見て現実に配慮しないのは子供だということか。大人は理屈はわかっていても現実の利益を考えて配慮することをためらわないものだと。

てれびん:ぼくはね、人は大人になんてなれるわけがないと思う。それでも立場から、言わないといけないことはある。それが人からは大人に見えているだけだと認識している。

海燕:今回、ぼくの規制反対のロジックに関してはほぼ批判を受けなかったわけで、あるいは理屈だけ取ったら納得してもらえるところも多かったのかもしれないね。でも、大人だったら子供を救うためにはそれを曲げることも考慮するべきでしょ、と言いたいのかな。

てれびん:それも、まあ、あるかな。たぶんね。

海燕:うーん。そちらのほうが、大人としては子供を救えるだろうということかな。そこは相容れないかなあ。

てれびん:社会が未成熟だからまだ早すぎる、と言っていた。

海燕:ぼくは『グイン・サーガ』の主人公グインの信者なんだけれど、グインはさ、どのような悲劇をもたらそうと真実を曲げるべきではない、というわけ。

てれびん:ふむ。まだ早いなら時計の針を進めたらいい、おれが世界の時を進めるというのかと思った。

海燕:いや、そういう話じゃない。栗本薫は社会の進歩とか信じていないと思う。まあ、それはいいけれど。

てれびん:まあさ、それは無責任だと思っているんじゃないかな。

海燕:だからさ、ぼくに意見をくれた人がいいたいのは、そういう理屈はいいんだと。とにかく子供が死ぬんだと。だったら理屈をこねていないでその子を守るべきだろと。それが大人だと。そういうことなのかもしれないね。

てれびん:うん。

海燕:でもさ。それを認めると、それこそ時計の針は進まないよね。

てれびん:そう。あと、いずれにしろ、お前の行為は人を殺すよとぼくは思う。だからさ、覚悟を持ってやれ、と。わたしのひと言が人を殺しているんだと自覚しろ、と思うかな。

海燕:結局さ、どっちに転んでも子供が死ぬ可能性はあるんだよ。今回の件でいえば、ドラマの企画がぽしゃって社員が仕事を失い、そのうちの子供が路頭に迷う、という可能性もゼロじゃない。一方が正義で他方が悪、という問題じゃないと思う。

てれびん:うん。

海燕:「悪をなす系」だよね。悪をなさないことには何もできないんだと。だから覚悟をもって悪をなせと。

てれびん:で、どうやっても、海燕さんは子供に見えると、ぼくは思うよ。

海燕:うん。あのさ。『はだかの王様』の話あるじゃん。

てれびん:うん。

海燕:あの話って、だれかが王様は裸だと叫んだら、犠牲者が出るかもしれないわけじゃん。王様に処刑される人が出るかもしれないわけでさ。で、そのことを自覚しないで無邪気に王様は裸だと叫ぶのはたしかにガキだよ。でも、自覚し覚悟をもったうえでそれでも王様は裸だと叫ぶべきだと思うなら、それは止められない。

てれびん:そうだね。

海燕:たとえ人が死ぬとしてもね。それが正義だとは思わない。でも、人間が行動するとはそういうこと。どうしたって犠牲は出る。あくまでもしぼくの理屈が正しいとしたらの話だけれどね。

てれびん:うん。ただ、叫ぶことが有害だと感じる人は一定数いるよね。だから批判する。

海燕:うん。じっさい、有害ではあるんだよ。犠牲者を出すんだから。ただ、王さまがはだかだという事実を曲げることはそれはそれで有害。もしあくまでも弱者に配慮するべきだという人がいるとしたら、その自覚はあるのか、自分もまた人を殺しているかもしれないという覚悟はあるのか、というところは気になる。もし、それがあるなら敬意をもって対立者として認識するんだけれど。ルルーシュがスザクを敵として認めたように。

てれびん:いや、でも、自覚しても責任取れないじゃん。取れない責任を覚悟はできない。だから、自覚はするし、受け止めるつもりはあっても、責任を取る覚悟はないんじゃないかな。むしろ、責任はとれないものと考えるのかも。

海燕:ふむ。

てれびん:責任を取れない覚悟は、ファッション覚悟かもね。たとえば、「きみのせいで星が落ちてくるけど責任とれるのか」といわれたとして、『ドラゴンボール』の孫悟空なら取れるだろう。それが昔の物語。ルルーシュでも取れる。でも、現実の人間には取れない。だから、社会で責任を取る。ひとりで取れないから、みんなで取る。

海燕:なるほど、面白いね。さて、そろそろ寝るか。

てれびん:うん、おやすみなさい。

またまた登場!

 超ひさしぶりにこのブログを更新しようと思います(この前の記事はニコニコチャンネルに書いた記事のコピペです)。

 ニコニコチャンネルのほうはずっと更新しつづけていたのですが、こっちは随分と長いあいだ放置してしまいましたね。

 まだチェックしている人はいるのかなあ。悪意のあるコメントが集まるといやなのでコメント欄は開放しませんが、もし見ている方がいらっしゃいましたらTwitterの「@kaien」までリプライを飛ばしてくれると喜びます。

 このブログはぼくにとってもなかなか思い入れのある「場」なので、できれば定期的に更新したいのですが、ふたつのブログを更新しつづけることは心理的にむずかしいですね。どうしてもどちらかに集中したくなってしまう。

 ちなみに最近はひとりのフリーライターとしてわりとマジメにお仕事していて、どうにか生活が成り立つくらいには稼げています。

 ただウェブライターという仕事はやっぱりなかなか大変で、月収にして50万円とかそのくらいがリミットになるんじゃないかな、と思っています。

 頑張ってキャリアを積んで相対的に利益率のいい仕事を選んでいけばもう少しいけるかもしれないけれど、それでも年収1000万円に至るのはかなりきびしいんじゃないか。

 1文字3円の仕事を1日10000文字こなせば良い計算だけれど、いろいろ考えるとそう理屈通りには行きそうにない。

 ペーパーメディアのライターはこの何倍かお金になるらしいんですけれどね。ただ、それはそれで手間がかかるのだろうし、まあ、物書きでお金を稼ぐのは大変だなあ、と思いますね。

 そうはいっても、ぼくけっこうは書くのが速い人なのでそこそこどうになるのですが。

 まあ、とりあえず年収600万円を目指して頑張ります。税金が怖いけれども……。

 ちなみに「SPICE」というサイトで『Fate』の記事を書いたりしています。良ければ読んでみてください。

http://spice.eplus.jp/articles/178022

 あと何か書くことあったかな。そうそう、最近ははやりの仮想通貨に手を出していたりします。

 べつだん、これで儲けようという意図はなく、「趣味」ないし「遊び」のつもりで草コイン(現段階で価値の低いコイン)をあさったりしているのだけれど、もし儲けが出たら本気になってしまいそうで怖い。モナコイン界隈とか、面白いよね。

 もう少しお金が入ったらインデックス投資でも始めようかとも思っています。

 『ウォール街のランダム・ウォーカー』ではないけれど、投資はやっぱりインデックスファンドでしょ、と個人的には考えます。

 アクティヴ投資ができるような才能なんてぼくにはないぞ。だれにもないのかもしれないけれどさ。

 世の中マネーがものいうところはやっぱりあるので、もうしばらくはちゃんとお金を稼ぎたいですね。

 ライターとかブロガーには定年がないのはありがたい。歳を取っても働きつづけたいところ。

 先ほど投資の話をしましたけれど、この種の資産運用はあくまで老後にお金を残すための方策でしかないので、いま遊ぶお金を得るためにはやはり働くしかありません。

 そうである以上、できる限り楽をして儲けたいものだけれど、まあ、そんなにうまくいくならだれも苦労はしないよね。

 ただ、在宅のライター仕事はサラリーマンの100倍くらい楽だと、個人的には思います。1日10000文字とか20000文字くらい書くのなんてお茶の子さいさいさ。

 いやー、ほんと、人生は楽しい。仕事はあるし、友達はいるし、趣味もたくさんあるし、あと足りないのは恋愛くらいなのだけれど、どうもぼくはその手の感情が平均に比べて薄いようなので、あまり恋人が欲しいという気もしません。

 ま、負け惜しみなんかじゃないからね! いいよな、人を好きになったり、人に好きになられたりできる人は。うらやましい。

 まあいいんだけれどさ。せっかくだから、ぼくもいっぺん恋愛感情というものを抱いてみたい。だれかに嫉妬とかしてむっきー!とかいってみたい。

 男にはやたらとモテるんだが、女子にはどうもモテないんだよなあ。子供にもモテるし、もっというなら犬にもモテるんだが。いったい何が悪いんだろう。ルックスかなあ。

 さて、ずいぶんとりとめのない記事になってしまいましたが、まあ、趣味でやっている個人ブログだからいいよね。でわでわ、また次の記事でお逢いしましょう。

恋とセックスはなぜコミュニケーションなのか。

 恋愛工学(セックス工学と言ったほうが正しいかも)のことを考えています。じっさい、調べれば調べるほど面白い。このネタをまとめて電子書籍を出したいなあと思っているのですけれど、はたして実現するでしょうか。うーん。

 ぼくが考えるに、恋愛工学の最大の特徴は、人と人の「コミュニケーション」を否定するところにあります。ふつう、コミュニケーションとは相手に何らかの「内面」が存在していることを想定し、その「内面」に向けて行うものなのですが、恋愛工学においてはそれは「非効率的」と却下されます。

 たとえば恋愛工学を指導する藤沢数希さんは恋愛工学の教典『ぼくは愛を証明しようと思う。』の刊行にあたって、既存の恋愛物語を否定しています。

「文学もそうですし、ドラマや映画などを含めても、これまでの恋愛に関する作品は本当の恋愛を描いていなかったのではないでしょうか。恋愛がメインテーマでない作品にも、ほとんど必ずと言っていいほどサイドストーリーに恋愛が入りますが、そこでは『非モテコミット』があたかも素晴らしいことのように描かれる。普通の恋愛を効率よく行う、実用的な役立つ恋愛小説がなかったんです」(藤沢数希さん)

http://nikkan-spa.jp/907528

 つまり、『ぼくは愛を証明しようと思う。』はいままでの小説と「効率」と「実用性」の点で違っている、という主張です。藤沢さんはさらに語ります。

「恋愛ドラマやJ-POPの歌詞、女の恋愛コラムニストがご丁寧にも『これが“正しい”恋愛ですよ』『こうしたら女の子にモテるんですよ』と暗に明に指南してくれる、恋愛に関する常識は根本的に間違っているんですよ。恋愛工学という科学的なアプローチとメルマガに集まったビッグデータを使って、世の中に蔓延している恋愛観を全部ひっくり返したかったんです」(藤沢さん)

 「科学的なアプローチ」ってそれはあなたのいう「聖帝十字撃」とか「トモダチンコ」のことですか、といいたくなりますが、そんな皮肉をいっていても始まらないので先へ進めます。

 ちなみに恋愛工学生によるとこれらのネーミングには「文学的なおかしみ」があるそうです。うーん、まあなあ、世の中にはいろいろなセンスの人がいるからね……。

 それはともかく、ようするに藤沢さんは恋愛において「効率」を重視しているわけです。藤沢さんにとって恋愛の目的はセックスであり、したがってそのゴールにより早くたどり着けるやり方が「効率的」であると考える。

 その意味で一般的な文学作品はどうでもいい途中経過ばかりを描いている「非効率的」なしろものということになる。

 しかし、一般的な文学作品において重要なのは、セックスだけではなくセックスを含めた恋人たちのやり取り、つまりコミュニケーションなのです。「こうすればうまくセックスできるよ」という小説は単なるナンパマニュアルであり、文学ではない。

 こう書くと藤沢さんはおそらく「それなら文学でなくてかまわない」というと思います。ぼくもべつに文学がナンパマニュアルより優れていると考えているわけでもない。

 ぼくがいいたいのは、文学作品の恋愛表現が迂遠になるのはそれだけの理由があるのだということです。端的にいって、藤沢さんが掲げるような「普通の恋愛を効率よく行う、実用的な役立つ恋愛小説」はつまらないからです。

 そもそも小説は「効率」とか「実用性」を問われるべきものではなく、面白いか面白くないかのほうが重要なのです。そして、そういう意味では藤沢さんの小説は面白くない。

 もちろん、この本は本質的にナンパマニュアルなのですから、小説としての面白さを問うのは間違えているのかもしれません。しかし、この本が小説として非常に優れているなどと主張する人を見ると、さすがに「ご冗談でしょう」といいたくなります。

 この本は徹頭徹尾、男のナルシシズムについて書かれているとしか思われません。ここにはセックスを含むコミュニケーションの官能性が徹底的に欠けているのです。

 あるいは、コミュニケーションを欠いていても藤沢さんがいうところの「科学的なアプローチ」を続ければ、一定の成果を挙げられるのかもしれません。

 ぼくは自分が試したわけではないのでわかりませんが、そういうふうに主張する人もいます。しかし、それでは相手の「内面」に、「心」に触れることはできないわけです。そもそも相手を心をもった人間として見ていないのだからあたりまえです。

 そういう意味では恋愛工学はどこまでいってもひとり相撲です。それは「相手側の事情」を見ない。相手にも相手の事情があり、問題があり、相手の心を捉えたいならそれによって対応を変えなければならないということを考えない。

 恋愛工学的には、それは「非効率的」なことなのでしょう。相手に対するアプローチがうまくいかなかったら次へ行けばいい。相手の内面の問題になど関わっている暇はない。ただ効率を重視するならそういうことになります。

 ある意味では一理あるのかもしれません。しかし、ぼくはどうしてもそれは孤独ではないか、むなしくはないのか、と思ってしまいます。だれとも触れ合わず、だれとも心を通わせず、ただ金を稼いだり、「いい女」とセックスできる自分を誇る。それで寂しくはないのか、と。

 おそらく藤沢さんは寂しくないのでしょう。かれは実にきれいに自己完結していて「他者」を必要としていないように見える。まあ、ほんとうにそうなのかどうかはわかりませんが、少なくともネットに上がっている情報を見る限りそんな雰囲気です。

 問題は、大半の男性はそうではないし、女性はもっとそうではないということです。藤沢さんはどうなのかしりませんが、一般に人間には「共感」という能力が備わっていて、これがあるからこそ小説や映画が面白いわけですが、とにかく相対した人の「心」を想像し、共振するわけです。

 特に好きな相手となると、こんなことを考えているのではないか、あんなことを悩んでいるのではないかと散々に想像を巡らし、ああでもないこうでもないと考え込むことが普通です。

 そして相手の歓びを自分の歓びのように思い、また相手の痛みを自分の痛みのように感じるようになります。

 この共感の能力はある意味でたしかに非効率的です。相手の内面なんていくら考えてもわかるわけはないのだから考えるだけ無駄だという割り切り方もあるでしょう。それくらいならトライアル&エラーの試行回数を増やした方が効率がいい、と。

 ですが、この共感こそが人を人にしているものなのです。完全に他者に対する共感を欠いた人間は、このいい方が正しいのかどうかわかりませんが、「サイコパス」とか「モンスター」と呼ばれる存在です。

 こういう存在は他人の痛みをまったく感じ取りません。だから「効率的に」他者を利用し搾取し、自分の利益をどこまでも第一に考えることができます。あるいはそれはビジネスにおいては有利な特徴なのかもしれませんが、人間的とはいいがたいでしょう。

 そして、大抵の男女はサイコパスでもなければモンスターでもない。だから、最大の効率のみを考えて恋愛やセックスをしようとしても無理があります。女性を性的に搾取しつづけたら、搾取された女性はもちろん、搾取した男性だって傷ついてしまうのです。それが共感の能力をもつ、モンスターならざる「心ある人間」というものです。

 いくら面倒でも、迂遠でも、コミュニケーションを通して出逢い、話し合い、傷つけあい、変化しあうしかない。それが恋愛に限らず、人間関係のだいご味だろうとぼくは思います。

 だからこそ、ぼくは文学や映画が好きなのです。それはぼくにとってはたとえようもなくエロティックなメディアです。

 藤沢さんはことあるごとに相手を極端に好きになってしまう「非モテコミット」を批判しています。『少年マガジン』のインタビューからそれについて語っている箇所を抜き出してみましょう。

――“非モテコミット”とは何ですか?

藤沢:モテない男性、つまり非モテ男性は、そもそも出会いが少ない。だから、数少ない出会えた女性がすこし優しくしてくれるだけで、簡単に好きになってしまいます。そうすると、もう、この女性しかいない、と思い込み、ひとりの女性に執着するようになります。女性から見ると、こういう男性はとても気持ち悪いのです。

――しかし、それは一途に愛している、ということではないのですか?

藤沢:女性が、自分のことに夢中になっている男性を嫌うのは、生物学的な理由があります。動物のメスは、優秀なモテるオスの子を生み、その子がさらにモテることによって、自分の子孫が繁栄することを本能的に求めます。だから、非モテコミットに陥っている男性は、他の女性に相手にされない非モテ遺伝子を持った劣等オスにしか見えないのです。劣等オスの子を産んだら、子も非モテになって、子孫が繁栄しなくなるかもしれません。それは、メスにとって、なんとしても避けたいことなのです。

 そうでしょうか。なるほど、非モテコミットはたしかに「気持ち悪い」。ぼくもそう思います。しかし、それはべつに何十万年前から続くメスの遺伝子が神秘な作用を行ったから「ではない」。

 もっと単純に、自分の恋心のことしか考えていない男性は(女性も)気持ち悪いという、それだけのことなのです。「好きだ」という自分の気持ちに夢中になって、相手のことを考えていない状態は、相手から見ると迷惑に思えるものです。その恋心が相手にとってどんな意味をもつかということを考えていないわけですから。

 ひとりよがりなんですよ。つまり、恋愛工学がナルシシズムなら、非モテコミットもまたナルシシズムなのです。非モテコミットの気持ち悪さとは、ナルシシズムの気持ち悪さです。

 いい換えるなら、恋愛工学はナルシシズムを否定する一方で、別種のナルシシズムを推奨しているということになります。

 恋愛工学を駆使すれば、あるいは効率的に多数の女性を「落とす」ことはできるかもしれません。しかし、それは特定の女性との間に建設的な関係を築くためには何の役にも立たないことでしょう。相手の内面を無視しているのだから当然です。

 特定の女性と豊かな関係を続けるためには、あの迂遠で面倒な「コミュニケーション」が必要とされるわけです。それはいわゆる「純愛」ではありません。「純愛」という言葉が「決して変わらない愛」を指すとするなら、「コミュニケーション」とは「相手との関係のなかで変わっていくこと」を意味しているからです。

 愛は「恋愛工学」か「純愛」か、という二択で語れるものではありません。もっと複雑な、もっと深淵なものなのです。

 ぼくは基本的にはセックスを含めたコミュニケーションが好きだし、その意味で自分は「スケベ」な人間だと思っています。しかし、その一方でコミュニケーションが怖い、恐ろしいという気持ちもよくわかる。

 いったん相手が内面をもつ存在であることを認めてしまったら、相手がその決して推し量り切れない心で何を考えているのか、気になってしかたなくなります。ひょっとしたら自分のことを嫌いなのかもしれない、軽蔑しているのかもしれない、ただの財布代わりにしか思っていないのかもしれない――煩悶はどこまでも続くでしょう。

 そうやって相手の気持ちをおもんばかりすぎたために身動きが取れなくなっているのが、いわゆる非モテだと思います。

 そういう非モテに対して、「相手の気持ちなんて考えなくてもいいんだよ」とささやきかけることは、たしかにある種の効果を及ぼすでしょう。

 けれど、それは恋愛の最も芳醇な果実を捨て、「自分ひとりだけの宇宙」へひきこもれ、といっているに等しいことです。

 恋愛とかセックスは、コミュニケーションにこそ面白みがあるわけです。自分が決して支配し切れない、コントロールし切れない、何を考えているのかも理解し切れない「他者」と出逢って、自分自身変化していくこと。それがコミュニケーションです。

 それはたしかに簡単なことではありません。しかし、「ひとりぼっちの世界」にひきこもってナルシシスティックに生きるよりはるかに豊かなことでしょう。ぼくはそう思います。

 ぼくはやはり「関係性のエロス」が好きなのです。もちろん、関係をこじらせて「共依存」に陥ってしまうこともあるでしょう。しかし、それでもぼくは「他者がいる世界」をこそ選びたい。そうでなくては、この世界に生まれて来た甲斐がないではないか。そう思うのです。

 恋愛工学的なアプローチを徹底して続けると、どのくらい恋愛が退屈なしろものに堕してしまうのかを描き出した小説に、『モテる小説』という作品があります。

 この小説の主人公は恋愛工学とよく似たアプローチで女性に声をかけつづけることを続け、最終的により多くの女性と関係を結ぶことを目指すようになります。

 わたしは日課として、オンライン、オフラインを問わず一日一人ずつ、新しいターゲットに声をかけていくことにした。ネットでコメントをつけたとしても応答がない場合があり、突然知らない人にコメントされて戸惑っていたり、あるいは嫌がっていたりするのかもしれないが、そう思われるということは単に縁がなかったということであり、とくに気にせず次へと進んだ。

(中略)

 しかし晴菜のハートを射止めたわたしは、それでも満足しなかった。X子からAA子、AB子……と晴菜とまったく同じ手法でアプローチし、AL子を口説き落とした。

 そのあとに取った行動は、この数ページの繰り返しに過ぎない。実際の恋愛は小説や歌のそれとは異なり、とても単調なものである。「恋愛は起伏があるのが面白いのだ」と言う人もいるが、それは単に強がりを言っているにすぎない。
 わたしは恋愛に飽きるまでこのループを続けるだろう。ループするのは恋愛だけでなく、生活すべてである。朝起きて、歯を磨いて出社してメールを見て返事をして上司に怒られて反省して仕事して上司に褒められてやる気を出し恋人と会って相槌を打ってセックスをして寝る。人生というものはこの繰り返しだが、その繰り返しに心の底からうんざりするまで、わたしは生き続けて恋をし続けるだろう。

 なぜあっというまにうんざりしてしまわないのか不思議ですが、ここには「人生なんてこんなものだ」というニヒリズムがあります。恋愛工学的な恋愛観とは、こういうニヒリズムに人を至らせてしまうのです。

 結局のところ、ひとが単純なアプローチに対して単純なリアクションを返すだけの単調な存在であるとするなら、生きることなど何が面白いでしょうか?

 「他者」が自分の想像を超える反応を返してくるからこそ、生きることは、そしてコミュニケーションは面白い。ぼくはそういうふうに考えます。

 『モテる小説』でも、恋愛工学と同じく恋愛小説やポップソングを否定していますが、少なくとも大半の恋愛小説は『モテる小説』より(そして『ぼくは愛を証明しようと思う。』より)面白いでしょう。

 ひたすらに「効率」を突き詰めていくなら、だれより自分自身を追いつめることになるのです。ぼくはそう信じています。あえていうなら、それが、ぼくの宗教です

 恋愛工学(セックス工学と言ったほうが正しいかも)のことを考えています。じっさい、調べれば調べるほど面白い。このネタをまとめて電子書籍を出したいなあと思っているのですけれど、はたして実現するでしょうか。うーん。

 ぼくが考えるに、恋愛工学の最大の特徴は、人と人の「コミュニケーション」を否定するところにあります。ふつう、コミュニケーションとは相手に何らかの「内面」が存在していることを想定し、その「内面」に向けて行うものなのですが、恋愛工学においてはそれは「非効率的」と却下されます。

 たとえば藤沢さんは恋愛工学の教典『ぼくは愛を証明しようと思う。』の刊行にあたって、既存の恋愛物語を否定しています。

「文学もそうですし、ドラマや映画などを含めても、これまでの恋愛に関する作品は本当の恋愛を描いていなかったのではないでしょうか。恋愛がメインテーマでない作品にも、ほとんど必ずと言っていいほどサイドストーリーに恋愛が入りますが、そこでは『非モテコミット』があたかも素晴らしいことのように描かれる。普通の恋愛を効率よく行う、実用的な役立つ恋愛小説がなかったんです」(藤沢数希さん)

http://nikkan-spa.jp/907528

 つまり、『ぼくは愛を証明しようと思う。』はいままでの小説と「効率」と「実用性」の点で違っている、という主張です。藤沢さんはさらに語ります。

「恋愛ドラマやJ-POPの歌詞、女の恋愛コラムニストがご丁寧にも『これが“正しい”恋愛ですよ』『こうしたら女の子にモテるんですよ』と暗に明に指南してくれる、恋愛に関する常識は根本的に間違っているんですよ。恋愛工学という科学的なアプローチとメルマガに集まったビッグデータを使って、世の中に蔓延している恋愛観を全部ひっくり返したかったんです」(藤沢さん)

 「科学的なアプローチ」ってそれはあなたのいう「聖帝十字撃」とか「トモダチンコ」のことですか、といいたくなりますが、そんな皮肉をいっていても始まらないので先へ進めます。

 ちなみに恋愛工学生によるとこれらのネーミングには「文学的なおかしみ」があるそうです。うーん、まあなあ、世の中にはいろいろなセンスの人がいるからね……。

 それはともかく、ようするに藤沢さんは恋愛において「効率」を重視しているわけです。藤沢さんにとって恋愛の目的はセックスであり、したがってそのゴールにより早くたどり着けるやり方が「効率的」であると考える。

 その意味で一般的な文学作品はどうでもいい途中経過ばかりを描いている「非効率的」なしろものということになる。

 しかし、一般的な文学作品において重要なのは、セックスだけではなくセックスを含めた恋人たちのやり取り、つまりコミュニケーションなのです。「こうすればうまくセックスできるよ」という小説は単なるナンパマニュアルであり、文学ではない。

 こう書くと藤沢さんはおそらく「それなら文学でなくてかまわない」というと思います。ぼくもべつに文学がナンパマニュアルより優れていると考えているわけでもない。

 ぼくがいいたいのは、文学作品の恋愛表現が迂遠になるのはそれだけの理由があるのだということです。端的にいって、藤沢さんが掲げるような「普通の恋愛を効率よく行う、実用的な役立つ恋愛小説」はつまらないからです。

 そもそも小説は「効率」とか「実用性」を問われるべきものではなく、面白いか面白くないかのほうが重要なのです。そして、そういう意味では藤沢さんの小説は面白くない。

 もちろん、この本は本質的にナンパマニュアルなのですから、小説としての面白さを問うのは間違えているのかもしれません。しかし、この本が小説として非常に優れているなどと主張する人を見ると、さすがに「ご冗談でしょう」といいたくなります。

 この本は徹頭徹尾、男のナルシシズムについて書かれているとしか思われません。ここにはセックスを含むコミュニケーションの官能性が徹底的に欠けているのです。

 あるいは、コミュニケーションを欠いていても藤沢さんがいうところの「科学的なアプローチ」を続ければ、一定の成果を挙げられるのかもしれません。

 ぼくは自分が試したわけではないのでわかりませんが、そういうふうに主張する人もいます。しかし、それでは相手の「内面」に、「心」に触れることはできないわけです。そもそも相手を心をもった人間として見ていないのだからあたりまえです。

 そういう意味では恋愛工学はどこまでいってもひとり相撲です。それは「相手側の事情」を見ない。相手にも相手の事情があり、問題があり、相手の心を捉えたいならそれによって対応を変えなければならないということを考えない。

 恋愛工学的には、それは「非効率的」なことなのでしょう。相手に対するアプローチがうまくいかなかったら次へ行けばいい。相手の内面の問題になど関わっている暇はない。ただ効率を重視するならそういうことになります。

 ある意味では一理あるのかもしれません。しかし、ぼくはどうしてもそれは孤独ではないか、むなしくはないのか、と思ってしまいます。だれとも触れ合わず、だれとも心を通わせず、ただ金を稼いだり、「いい女」とセックスできる自分を誇る。それで寂しくはないのか、と。

 おそらく藤沢さんは寂しくないのでしょう。かれは実にきれいに自己完結していて「他者」を必要としていないように見える。まあ、ほんとうにそうなのかどうかはわかりませんが、少なくともネットに上がっている情報を見る限りそんな雰囲気です。

 問題は、大半の男性はそうではないし、女性はもっとそうではないということです。藤沢さんはどうなのかしりませんが、一般に人間には「共感」という能力が備わっていて、これがあるからこそ小説や映画が面白いわけですが、とにかく相対した人の「心」を想像し、共振するわけです。

 特に好きな相手となると、こんなことを考えているのではないか、あんなことを悩んでいるのではないかと散々に想像を巡らし、ああでもないこうでもないと考え込むことが普通です。

 そして相手の歓びを自分の歓びのように思い、また相手の痛みを自分の痛みのように感じるようになります。

 この共感の能力はある意味でたしかに非効率的です。相手の内面なんていくら考えてもわかるわけはないのだから考えるだけ無駄だという割り切り方もあるでしょう。それくらいならトライアル&エラーの試行回数を増やした方が効率がいい、と。

 ですが、この共感こそが人を人にしているものなのです。完全に他者に対する共感を欠いた人間は、このいい方が正しいのかどうかわかりませんが、「サイコパス」とか「モンスター」と呼ばれる存在です。

 こういう存在は他人の痛みをまったく感じ取りません。だから「効率的に」他者を利用し搾取し、自分の利益をどこまでも第一に考えることができます。あるいはそれはビジネスにおいては有利な特徴なのかもしれませんが、人間的とはいいがたいでしょう。

 そして、大抵の男女はサイコパスでもなければモンスターでもない。だから、最大の効率のみを考えて恋愛やセックスをしようとしても無理があります。女性を性的に搾取しつづけたら、搾取された女性はもちろん、搾取した男性だって傷ついてしまうのです。それが共感の能力をもつ、モンスターならざる「心ある人間」というものです。

 いくら面倒でも、迂遠でも、コミュニケーションを通して出逢い、話し合い、傷つけあい、変化しあうしかない。それが恋愛に限らず、人間関係のだいご味だろうとぼくは思います。

 だからこそ、ぼくは文学や映画が好きなのです。それはぼくにとってはたとえようもなくエロティックなメディアです。

 藤沢さんはことあるごとに相手を極端に好きになってしまう「非モテコミット」を批判しています。『少年マガジン』のインタビューからそれについて語っている箇所を抜き出してみましょう。

――“非モテコミット”とは何ですか?

藤沢:モテない男性、つまり非モテ男性は、そもそも出会いが少ない。だから、数少ない出会えた女性がすこし優しくしてくれるだけで、簡単に好きになってしまいます。そうすると、もう、この女性しかいない、と思い込み、ひとりの女性に執着するようになります。女性から見ると、こういう男性はとても気持ち悪いのです。

――しかし、それは一途に愛している、ということではないのですか?

藤沢:女性が、自分のことに夢中になっている男性を嫌うのは、生物学的な理由があります。動物のメスは、優秀なモテるオスの子を生み、その子がさらにモテることによって、自分の子孫が繁栄することを本能的に求めます。だから、非モテコミットに陥っている男性は、他の女性に相手にされない非モテ遺伝子を持った劣等オスにしか見えないのです。劣等オスの子を産んだら、子も非モテになって、子孫が繁栄しなくなるかもしれません。それは、メスにとって、なんとしても避けたいことなのです。

 そうでしょうか。なるほど、非モテコミットはたしかに「気持ち悪い」。ぼくもそう思います。しかし、それはべつに何十万年前から続くメスの遺伝子が神秘な作用を行ったから「ではない」。

 もっと単純に、自分の恋心のことしか考えていない男性は(女性も)気持ち悪いという、それだけのことなのです。「好きだ」という自分の気持ちに夢中になって、相手のことを考えていない状態は、相手から見ると迷惑に思えるものです。その恋心が相手にとってどんな意味をもつかということを考えていないわけですから。

 ひとりよがりなんですよ。つまり、恋愛工学がナルシシズムなら、非モテコミットもまたナルシシズムなのです。非モテコミットの気持ち悪さとは、ナルシシズムの気持ち悪さです。

 いい換えるなら、恋愛工学はナルシシズムを否定する一方で、別種のナルシシズムを推奨しているということになります。

 恋愛工学を駆使すれば、あるいは効率的に多数の女性を「落とす」ことはできるかもしれません。しかし、それは特定の女性との間に建設的な関係を築くためには何の役にも立たないことでしょう。相手の内面を無視しているのだから当然です。

 特定の女性と豊かな関係を続けるためには、あの迂遠で面倒な「コミュニケーション」が必要とされるわけです。それはいわゆる「純愛」ではありません。「純愛」という言葉が「決して変わらない愛」を指すとするなら、「コミュニケーション」とは「相手との関係のなかで変わっていくこと」を意味しているからです。

 愛は「恋愛工学」か「純愛」か、という二択で語れるものではありません。もっと複雑な、もっと深淵なものなのです。

 ぼくは基本的にはセックスを含めたコミュニケーションが好きだし、その意味で自分は「スケベ」な人間だと思っています。しかし、その一方でコミュニケーションが怖い、恐ろしいという気持ちもよくわかる。

 いったん相手が内面をもつ存在であることを認めてしまったら、相手がその決して推し量り切れない心で何を考えているのか、気になってしかたなくなります。ひょっとしたら自分のことを嫌いなのかもしれない、軽蔑しているのかもしれない、ただの財布代わりにしか思っていないのかもしれない――煩悶はどこまでも続くでしょう。

 そうやって相手の気持ちをおもんばかりすぎたために身動きが取れなくなっているのが、いわゆる非モテだと思います。

 そういう非モテに対して、「相手の気持ちなんて考えなくてもいいんだよ」とささやきかけることは、たしかにある種の効果を及ぼすでしょう。

 けれど、それは恋愛の最も芳醇な果実を捨て、「自分ひとりだけの宇宙」へひきこもれ、といっているに等しいことです。

 恋愛とかセックスは、コミュニケーションにこそ面白みがあるわけです。自分が決して支配し切れない、コントロールし切れない、何を考えているのかも理解し切れない「他者」と出逢って、自分自身変化していくこと。それがコミュニケーションです。

 それはたしかに簡単なことではありません。しかし、「ひとりぼっちの世界」にひきこもってナルシシスティックに生きるよりはるかに豊かなことでしょう。ぼくはそう思います。

 ぼくはやはり「関係性のエロス」が好きなのです。もちろん、関係をこじらせて「共依存」に陥ってしまうこともあるでしょう。しかし、それでもぼくは「他者がいる世界」をこそ選びたい。そうでなくては、この世界に生まれて来た甲斐がないではないか。そう思うのです。

 恋愛工学的なアプローチを徹底して続けると、どのくらい恋愛が退屈なしろものに堕してしまうのかを描き出した小説に、『モテる小説』という作品があります。

 この小説の主人公は恋愛工学とよく似たアプローチで女性に声をかけつづけることを続け、最終的により多くの女性と関係を結ぶことを目指すようになります。

 わたしは日課として、オンライン、オフラインを問わず一日一人ずつ、新しいターゲットに声をかけていくことにした。ネットでコメントをつけたとしても応答がない場合があり、突然知らない人にコメントされて戸惑っていたり、あるいは嫌がっていたりするのかもしれないが、そう思われるということは単に縁がなかったということであり、とくに気にせず次へと進んだ。

(中略)

 しかし晴菜のハートを射止めたわたしは、それでも満足しなかった。X子からAA子、AB子……と晴菜とまったく同じ手法でアプローチし、AL子を口説き落とした。

 そのあとに取った行動は、この数ページの繰り返しに過ぎない。実際の恋愛は小説や歌のそれとは異なり、とても単調なものである。「恋愛は起伏があるのが面白いのだ」と言う人もいるが、それは単に強がりを言っているにすぎない。
 わたしは恋愛に飽きるまでこのループを続けるだろう。ループするのは恋愛だけでなく、生活すべてである。朝起きて、歯を磨いて出社してメールを見て返事をして上司に怒られて反省して仕事して上司に褒められてやる気を出し恋人と会って相槌を打ってセックスをして寝る。人生というものはこの繰り返しだが、その繰り返しに心の底からうんざりするまで、わたしは生き続けて恋をし続けるだろう。

 なぜあっというまにうんざりしてしまわないのか不思議ですが、ここには「人生なんてこんなものだ」というニヒリズムがあります。恋愛工学的な恋愛観とは、こういうニヒリズムに人を至らせてしまうのです。

 結局のところ、ひとが単純なアプローチに対して単純なリアクションを返すだけの単調な存在であるとするなら、生きることなど何が面白いでしょうか?

 「他者」が自分の想像を超える反応を返してくるからこそ、生きることは、そしてコミュニケーションは面白い。ぼくはそういうふうに考えます。

 『モテる小説』でも、恋愛工学と同じく恋愛小説やポップソングを否定していますが、少なくとも大半の恋愛小説は『モテる小説』より(そして『ぼくは愛を証明しようと思う。』より)面白いでしょう。

 ひたすらに「効率」を突き詰めていくなら、だれより自分自身を追いつめることになるのです。ぼくはそう信じています。あえていうなら、それが、ぼくの宗教です

 恋愛工学(セックス工学と言ったほうが正しいかも)のことを考えています。じっさい、調べれば調べるほど面白い。このネタをまとめて電子書籍を出したいなあと思っているのですけれど、はたして実現するでしょうか。うーん。

 ぼくが考えるに、恋愛工学の最大の特徴は、人と人の「コミュニケーション」を否定するところにあります。ふつう、コミュニケーションとは相手に何らかの「内面」が存在していることを想定し、その「内面」に向けて行うものなのですが、恋愛工学においてはそれは「非効率的」と却下されます。

 たとえば藤沢さんは恋愛工学の教典『ぼくは愛を証明しようと思う。』の刊行にあたって、既存の恋愛物語を否定しています。

「文学もそうですし、ドラマや映画などを含めても、これまでの恋愛に関する作品は本当の恋愛を描いていなかったのではないでしょうか。恋愛がメインテーマでない作品にも、ほとんど必ずと言っていいほどサイドストーリーに恋愛が入りますが、そこでは『非モテコミット』があたかも素晴らしいことのように描かれる。普通の恋愛を効率よく行う、実用的な役立つ恋愛小説がなかったんです」(藤沢数希さん)

http://nikkan-spa.jp/907528

 つまり、『ぼくは愛を証明しようと思う。』はいままでの小説と「効率」と「実用性」の点で違っている、という主張です。藤沢さんはさらに語ります。

「恋愛ドラマやJ-POPの歌詞、女の恋愛コラムニストがご丁寧にも『これが“正しい”恋愛ですよ』『こうしたら女の子にモテるんですよ』と暗に明に指南してくれる、恋愛に関する常識は根本的に間違っているんですよ。恋愛工学という科学的なアプローチとメルマガに集まったビッグデータを使って、世の中に蔓延している恋愛観を全部ひっくり返したかったんです」(藤沢さん)

 「科学的なアプローチ」ってそれはあなたのいう「聖帝十字撃」とか「トモダチンコ」のことですか、といいたくなりますが、そんな皮肉をいっていても始まらないので先へ進めます。

 ちなみに恋愛工学生によるとこれらのネーミングには「文学的なおかしみ」があるそうです。うーん、まあなあ、世の中にはいろいろなセンスの人がいるからね……。

 それはともかく、ようするに藤沢さんは恋愛において「効率」を重視しているわけです。藤沢さんにとって恋愛の目的はセックスであり、したがってそのゴールにより早くたどり着けるやり方が「効率的」であると考える。

 その意味で一般的な文学作品はどうでもいい途中経過ばかりを描いている「非効率的」なしろものということになる。

 しかし、一般的な文学作品において重要なのは、セックスだけではなくセックスを含めた恋人たちのやり取り、つまりコミュニケーションなのです。「こうすればうまくセックスできるよ」という小説は単なるナンパマニュアルであり、文学ではない。

 こう書くと藤沢さんはおそらく「それなら文学でなくてかまわない」というと思います。ぼくもべつに文学がナンパマニュアルより優れていると考えているわけでもない。

 ぼくがいいたいのは、文学作品の恋愛表現が迂遠になるのはそれだけの理由があるのだということです。端的にいって、藤沢さんが掲げるような「普通の恋愛を効率よく行う、実用的な役立つ恋愛小説」はつまらないからです。

 そもそも小説は「効率」とか「実用性」を問われるべきものではなく、面白いか面白くないかのほうが重要なのです。そして、そういう意味では藤沢さんの小説は面白くない。

 もちろん、この本は本質的にナンパマニュアルなのですから、小説としての面白さを問うのは間違えているのかもしれません。しかし、この本が小説として非常に優れているなどと主張する人を見ると、さすがに「ご冗談でしょう」といいたくなります。

 この本は徹頭徹尾、男のナルシシズムについて書かれているとしか思われません。ここにはセックスを含むコミュニケーションの官能性が徹底的に欠けているのです。

 あるいは、コミュニケーションを欠いていても藤沢さんがいうところの「科学的なアプローチ」を続ければ、一定の成果を挙げられるのかもしれません。

 ぼくは自分が試したわけではないのでわかりませんが、そういうふうに主張する人もいます。しかし、それでは相手の「内面」に、「心」に触れることはできないわけです。そもそも相手を心をもった人間として見ていないのだからあたりまえです。

 そういう意味では恋愛工学はどこまでいってもひとり相撲です。それは「相手側の事情」を見ない。相手にも相手の事情があり、問題があり、相手の心を捉えたいならそれによって対応を変えなければならないということを考えない。

 恋愛工学的には、それは「非効率的」なことなのでしょう。相手に対するアプローチがうまくいかなかったら次へ行けばいい。相手の内面の問題になど関わっている暇はない。ただ効率を重視するならそういうことになります。

 ある意味では一理あるのかもしれません。しかし、ぼくはどうしてもそれは孤独ではないか、むなしくはないのか、と思ってしまいます。だれとも触れ合わず、だれとも心を通わせず、ただ金を稼いだり、「いい女」とセックスできる自分を誇る。それで寂しくはないのか、と。

 おそらく藤沢さんは寂しくないのでしょう。かれは実にきれいに自己完結していて「他者」を必要としていないように見える。まあ、ほんとうにそうなのかどうかはわかりませんが、少なくともネットに上がっている情報を見る限りそんな雰囲気です。

 問題は、大半の男性はそうではないし、女性はもっとそうではないということです。藤沢さんはどうなのかしりませんが、一般に人間には「共感」という能力が備わっていて、これがあるからこそ小説や映画が面白いわけですが、とにかく相対した人の「心」を想像し、共振するわけです。

 特に好きな相手となると、こんなことを考えているのではないか、あんなことを悩んでいるのではないかと散々に想像を巡らし、ああでもないこうでもないと考え込むことが普通です。

 そして相手の歓びを自分の歓びのように思い、また相手の痛みを自分の痛みのように感じるようになります。

 この共感の能力はある意味でたしかに非効率的です。相手の内面なんていくら考えてもわかるわけはないのだから考えるだけ無駄だという割り切り方もあるでしょう。それくらいならトライアル&エラーの試行回数を増やした方が効率がいい、と。

 ですが、この共感こそが人を人にしているものなのです。完全に他者に対する共感を欠いた人間は、このいい方が正しいのかどうかわかりませんが、「サイコパス」とか「モンスター」と呼ばれる存在です。

 こういう存在は他人の痛みをまったく感じ取りません。だから「効率的に」他者を利用し搾取し、自分の利益をどこまでも第一に考えることができます。あるいはそれはビジネスにおいては有利な特徴なのかもしれませんが、人間的とはいいがたいでしょう。

 そして、大抵の男女はサイコパスでもなければモンスターでもない。だから、最大の効率のみを考えて恋愛やセックスをしようとしても無理があります。女性を性的に搾取しつづけたら、搾取された女性はもちろん、搾取した男性だって傷ついてしまうのです。それが共感の能力をもつ、モンスターならざる「心ある人間」というものです。

 いくら面倒でも、迂遠でも、コミュニケーションを通して出逢い、話し合い、傷つけあい、変化しあうしかない。それが恋愛に限らず、人間関係のだいご味だろうとぼくは思います。

 だからこそ、ぼくは文学や映画が好きなのです。それはぼくにとってはたとえようもなくエロティックなメディアです。

 藤沢さんはことあるごとに相手を極端に好きになってしまう「非モテコミット」を批判しています。『少年マガジン』のインタビューからそれについて語っている箇所を抜き出してみましょう。

――“非モテコミット”とは何ですか?

藤沢:モテない男性、つまり非モテ男性は、そもそも出会いが少ない。だから、数少ない出会えた女性がすこし優しくしてくれるだけで、簡単に好きになってしまいます。そうすると、もう、この女性しかいない、と思い込み、ひとりの女性に執着するようになります。女性から見ると、こういう男性はとても気持ち悪いのです。

――しかし、それは一途に愛している、ということではないのですか?

藤沢:女性が、自分のことに夢中になっている男性を嫌うのは、生物学的な理由があります。動物のメスは、優秀なモテるオスの子を生み、その子がさらにモテることによって、自分の子孫が繁栄することを本能的に求めます。だから、非モテコミットに陥っている男性は、他の女性に相手にされない非モテ遺伝子を持った劣等オスにしか見えないのです。劣等オスの子を産んだら、子も非モテになって、子孫が繁栄しなくなるかもしれません。それは、メスにとって、なんとしても避けたいことなのです。

 そうでしょうか。なるほど、非モテコミットはたしかに「気持ち悪い」。ぼくもそう思います。しかし、それはべつに何十万年前から続くメスの遺伝子が神秘な作用を行ったから「ではない」。

 もっと単純に、自分の恋心のことしか考えていない男性は(女性も)気持ち悪いという、それだけのことなのです。「好きだ」という自分の気持ちに夢中になって、相手のことを考えていない状態は、相手から見ると迷惑に思えるものです。その恋心が相手にとってどんな意味をもつかということを考えていないわけですから。

 ひとりよがりなんですよ。つまり、恋愛工学がナルシシズムなら、非モテコミットもまたナルシシズムなのです。非モテコミットの気持ち悪さとは、ナルシシズムの気持ち悪さです。

 いい換えるなら、恋愛工学はナルシシズムを否定する一方で、別種のナルシシズムを推奨しているということになります。

 恋愛工学を駆使すれば、あるいは効率的に多数の女性を「落とす」ことはできるかもしれません。しかし、それは特定の女性との間に建設的な関係を築くためには何の役にも立たないことでしょう。相手の内面を無視しているのだから当然です。

 特定の女性と豊かな関係を続けるためには、あの迂遠で面倒な「コミュニケーション」が必要とされるわけです。それはいわゆる「純愛」ではありません。「純愛」という言葉が「決して変わらない愛」を指すとするなら、「コミュニケーション」とは「相手との関係のなかで変わっていくこと」を意味しているからです。

 愛は「恋愛工学」か「純愛」か、という二択で語れるものではありません。もっと複雑な、もっと深淵なものなのです。

 ぼくは基本的にはセックスを含めたコミュニケーションが好きだし、その意味で自分は「スケベ」な人間だと思っています。しかし、その一方でコミュニケーションが怖い、恐ろしいという気持ちもよくわかる。

 いったん相手が内面をもつ存在であることを認めてしまったら、相手がその決して推し量り切れない心で何を考えているのか、気になってしかたなくなります。ひょっとしたら自分のことを嫌いなのかもしれない、軽蔑しているのかもしれない、ただの財布代わりにしか思っていないのかもしれない――煩悶はどこまでも続くでしょう。

 そうやって相手の気持ちをおもんばかりすぎたために身動きが取れなくなっているのが、いわゆる非モテだと思います。

 そういう非モテに対して、「相手の気持ちなんて考えなくてもいいんだよ」とささやきかけることは、たしかにある種の効果を及ぼすでしょう。

 けれど、それは恋愛の最も芳醇な果実を捨て、「自分ひとりだけの宇宙」へひきこもれ、といっているに等しいことです。

 恋愛とかセックスは、コミュニケーションにこそ面白みがあるわけです。自分が決して支配し切れない、コントロールし切れない、何を考えているのかも理解し切れない「他者」と出逢って、自分自身変化していくこと。それがコミュニケーションです。

 それはたしかに簡単なことではありません。しかし、「ひとりぼっちの世界」にひきこもってナルシシスティックに生きるよりはるかに豊かなことでしょう。ぼくはそう思います。

 ぼくはやはり「関係性のエロス」が好きなのです。もちろん、関係をこじらせて「共依存」に陥ってしまうこともあるでしょう。しかし、それでもぼくは「他者がいる世界」をこそ選びたい。そうでなくては、この世界に生まれて来た甲斐がないではないか。そう思うのです。

 恋愛工学的なアプローチを徹底して続けると、どのくらい恋愛が退屈なしろものに堕してしまうのかを描き出した小説に、『モテる小説』という作品があります。

 この小説の主人公は恋愛工学とよく似たアプローチで女性に声をかけつづけることを続け、最終的により多くの女性と関係を結ぶことを目指すようになります。

 わたしは日課として、オンライン、オフラインを問わず一日一人ずつ、新しいターゲットに声をかけていくことにした。ネットでコメントをつけたとしても応答がない場合があり、突然知らない人にコメントされて戸惑っていたり、あるいは嫌がっていたりするのかもしれないが、そう思われるということは単に縁がなかったということであり、とくに気にせず次へと進んだ。

(中略)

 しかし晴菜のハートを射止めたわたしは、それでも満足しなかった。X子からAA子、AB子……と晴菜とまったく同じ手法でアプローチし、AL子を口説き落とした。

 そのあとに取った行動は、この数ページの繰り返しに過ぎない。実際の恋愛は小説や歌のそれとは異なり、とても単調なものである。「恋愛は起伏があるのが面白いのだ」と言う人もいるが、それは単に強がりを言っているにすぎない。
 わたしは恋愛に飽きるまでこのループを続けるだろう。ループするのは恋愛だけでなく、生活すべてである。朝起きて、歯を磨いて出社してメールを見て返事をして上司に怒られて反省して仕事して上司に褒められてやる気を出し恋人と会って相槌を打ってセックスをして寝る。人生というものはこの繰り返しだが、その繰り返しに心の底からうんざりするまで、わたしは生き続けて恋をし続けるだろう。

 なぜあっというまにうんざりしてしまわないのか不思議ですが、ここには「人生なんてこんなものだ」というニヒリズムがあります。恋愛工学的な恋愛観とは、こういうニヒリズムに人を至らせてしまうのです。

 結局のところ、ひとが単純なアプローチに対して単純なリアクションを返すだけの単調な存在であるとするなら、生きることなど何が面白いでしょうか?

 「他者」が自分の想像を超える反応を返してくるからこそ、生きることは、そしてコミュニケーションは面白い。ぼくはそういうふうに考えます。

 『モテる小説』でも、恋愛工学と同じく恋愛小説やポップソングを否定していますが、少なくとも大半の恋愛小説は『モテる小説』より(そして『ぼくは愛を証明しようと思う。』より)面白いでしょう。

 ひたすらに「効率」を突き詰めていくなら、だれより自分自身を追いつめることになるのです。ぼくはそう信じています。あえていうなら、それが、ぼくの宗教です

 最近、乙武洋匡さんの不倫事件が発覚し、話題になっています。

 清廉潔白とはいかないまでも、温厚な常識人と見られていた人物のことだけに、事件性は大きいものがありますね。

 信じていたのに失望した、という人も多いでしょう。

 いったい人はなぜ不倫するのでしょうか? 不倫のどこにそれほどの魅力が?

 さて、坂爪真吾さんの本をもっと読んでみたいということで、『はじめての不倫学』を読み上げました。まさに不倫とその予防について解説した新書です。

 この頃、新書ばかり読んでいますね。お手軽な新書ばかり読みつづけるのではなくもう少し読みごたえのある本を読んでみようかな、という気もするのですが、なかなか読みたい本も見あたらないのが現状です。ハードカバーは金額的にも高いしね。

 もっとも、『はじめての不倫学』は「「社会問題」として考える」というサブタイトルからわかる通り、必ずしも「お手軽」とはいえない一冊です。

 不倫という「現象」を、いち個人の倫理観の欠如や意志の弱さと決めつけるのではなく、「わたしたちの社会の問題」として考えていこうと提唱している本だといっていいと思います。

 不倫のどこが社会問題なのか、どこまでいっても個人の不貞の問題に過ぎないではないか、と考える方もいらっしゃるでしょう。

 しかし、著者によると、現実に不倫は貧困や家庭崩壊といった諸問題と結びついているのであって、もはや個人の問題と割り切ることはできません。

 そして著者は、不倫はたとえばインフルエンザのようにだれでも陥ることがありえる問題なのであって、個人の咎を追求することには意味がないという立場を採ります。

 これは極論であるかもしれませんが、同時に正論でもあるでしょう。

 もっとも、一般の既婚者は自分は(自分とパートナーは)不倫などとは無縁だ、と信じているかもしれません。

 ですが、だれだって事故のよう突然にに恋に落ちることはありえるわけです。

 じっさいに不倫してしまった人物も、自分が不倫するなど思ってもいなかったと証言しています。

 それでは、不倫を社会問題として捉えるとはどういうことなのか。

 それは不倫問題を社会全体で考えて防止していくということです。

 なぜ防止する必要があるのか、著者はその理由を五つ挙げています。

 第一の理由は、単純な話ですが高確率で周囲にバレるから。

 特に男性の不倫はきわめてバレやすいといいます。そして、バレてしまったら、家庭の平穏は崩壊します。

 それまでどれほど信頼と愛情でつながっていたパートナーだとしても、一瞬でその関係は崩れ去り、あとに残るものは不信と敵意だけなのです。

 仮に離婚しないで済んだとしても、一生、パートナーから愚痴や嫌味を聞かされつづけることになる可能性があります。

 第二の理由は、不倫後、仮に現在のパートナーと別れて不倫相手と結婚しても大半はうまくいかないから。

 うまくいくのは25%で、75%は結局別れるというデータもあるそうです。

 第三の理由は、不倫ウィルスは当事者だけではなく、その子供にも「感染」し、子供が成人後、親と同じように不倫をしてしまうリスクがあるから。

 第四の理由は、じっさいに不倫まで踏み込まなくても、「不倫未遂」、つまり配偶者以外に恋をしてしまい、日常生活に支障が出るパターンがありえるから。

 そして第五の理由は、不倫に中毒性があるからです。

「アルコールやタバコ、DVやストーキングと同じ」で、不倫は常習化しやすい。

 セックスの快楽は「落差」に比例するため、不倫相手との初めてのセックスは、その背徳感と高揚感によって、通常の性行為よりも圧倒的に強度が増すそうです。

 ゆえに、不倫のセックスを一度体験してしまった人は、多くの場合、それ以前には戻れない。

 そして、どうしようもなく不倫の関係に耽溺していくのです。

 その果てに待っているものが破たんでしかないとわかってはいても。

 著者は不倫がインフルエンザのようなもので、だれでも罹患する危険があるとし、そのためそれを事前に防止する「不倫ワクチン」が開発される必要があると語ります。

 いったい不倫という行為を防ぐためにはどのようなワクチンが有効なのか?

 「話し合いで解決しましょう」などという微温な解決法や、会員制不倫サイトなどは無益どころか有害ですらあることはたしかです。

 著者が具体的にどのようなワクチンを提唱するか、それはじっさい読んでたしかめてもらうとして、ぼくがこの本を読んで考えたことを記しておきましょう。

 それは不倫と家族は同じ幻想の裏表の関係だということ。

 そもそも一夫一妻制にもとづく家族形態はさまざまな欠点を抱えています。

 この合理性が突き詰められた社会にあって、家族という関係は「夫婦間の愛情」という幻想にもとづいているのだから当然と言えば当然でしょう。

 家族とはあらかじめ崩壊の種を埋め込まれた形態なのです。

 それなら、もっとオープンな形態を選択すればいいのか。

 しかし、どれほどオープンなコミュニティを形作ろうとしても、どうしても家族という幻想は忍び寄って来る。

 家族制度はきわめてひどいシステムではあるかもしれないが、それにまさるシステムは存在しない、という意味のことを著者は語っています。

 つまり、どんなに社会が進歩しても、大抵のひとは家族から完全に逃れ切ることはできないのです。

 ですが、同時にその欺瞞と退屈ゆえに、ひとは家族から逃れようともする。それがときに不倫という形を採るのです。

 それは単純な性欲だけの問題ではありません。

 むしろ、シンプルに性欲だけの問題であるとするなら、よほど話は簡単でしょう。

 性欲は自慰や風俗産業などで解消すればいいだけのことですから。

 じっさいには、不倫をくり返す人は、必ずしも性欲の充足だけを求めているわけではない。

 恋愛のときめきや刺激的なセックスといった、家庭では決して得られない、破滅とうらはらの快楽をこそ求めている人が多いわけです。

 著者はそのようなセックスを知らなくても幸福に生きていくことはできるはずだ、覚醒剤の使用者をうらやましく思う必要がないのと同様、不倫にあこがれる必要もないという意味のことを書いています。

 でもねー、とぼくなどは思ってしまうのです。

 たしかにそうかもしれないが、やはり不倫という果実は魅力的だろうと。

 そう、おそらく話は逆なのです。日常が平和で幸福であればあるほど、ひとはそこに退屈を感じ、それを破壊してみたいと考えるのではないでしょうか。

 これは人間のどうしようもない暗いサガだと思います。

 ゆえに、結婚という制度がある限り、不倫もなくなることはない。

 いくつかの「不倫ワクチン」の開発と導入によって、多少は効果をもたらすことができるかもしれませんが、根本的に不倫そのものをなくことはできないと思うのです。

 ただし、絶対に不倫をしないで済む方法がひとつだけあります。そもそも結婚しないことです。

 結婚さえしなければ、だれとセックスしたところで、それは不倫とは呼ばれない。裏切りを責め立てる人もだれもいない。

 けれど、ひとはひとりでは寂しくて、家族を求める。

 そして、その一方で家庭という安定した空間に失望を感じ、刺激と快楽を求めて家庭外のセックスに走る。

 このどうしようもないパラドックスが、不倫という行為にはついて回ります。

 不倫を考えることは家族を考えること。

 その意味では、乙武さんのような人物を責めてもしかたありません。

 不倫はこのうえなく甘い果実。どんな偉人でも逆らえない魅力を持っているのです。

 あなたも、かじってみたいとは思いませんか? どんな味がするのか知りたくはないでしょうか?

 ぼくなどはそもそも結婚相手がいないので、生涯、味わうことはできないかもしれませんが……。

 またこのオチかよ! ウッキー!

お料理。

 最近、料理に凝っている海燕です。

 今日作ったハンバーグのアイオリソースがけ、たこのカルパッチョ、砂肝とマッシュルームのアヒージョはどれも美味しかったです。

 やっぱりレシピ通りていねいに作ることが肝心だとしみじみ思い知りました。

 ハンバーグはだれでも作り方を知っている料理であるわけですが、ちゃんとレシピ通りの分量で作るとふわふわになるのには驚きました。いままでのうちのハンバーグはパン粉が少なすぎたんですね。

 あと、アイオリソースが美味。牛乳にマヨネーズとにんにくを加えたソースなのですが、これがハンバーグに合う。すばら。

 アヒージョはスペインの「にんにくオリーブオイル煮」ともいうべき料理で、簡単に作れて非常に美味しいのでオススメです。

 ちょっとエスニックな名前なので知らない方は一風変わった料理を想像するかもしれませんが、作って食べてみると非常に正統派のお味。

 まあ、何がスタンダードなのかわかりませんが、日本人好みの料理だと思います(レシピが日本人好みに調整されているのかもしれないけれど)。

 ちなみに、ぼくはクックパッドの「プロのレシピ」を参考にして料理しています。

 その数、数千の(それ以上かも)プロが作ったレシピを参照できるサイトで、代金はクックパッドの会費+100円のみ。

 定期的に料理を作る人なら十分に元が取れると思うので、そういう人にはお奨めです。便利ですよ。

 さて、ネットで買った冷凍牡蠣が余っているので、あしたは牡蠣とえびのアヒージョでも作ろうかな。何を入れてもいいという意味では非常に気楽な料理ですね。

 料理を始めてからわりと毎日が楽しいです。やっぱり毎日何かしらやることがあるっていいですよね。ひきこもりの最大の敵は退屈ですから。

 あしたは何を作ろうかと、それを考えるだけでもかなり幸せな日々なのです。